キムさんという人に会えるかどうかはわからない。仮に会えたとしてもその場所を提供してくれるという保証はない。だが、もしそのVIP席をキープできたなら・・・。これは賭けである。
レース開始まで2時間以上あるがすでに多くの観客が集まっている。さっそくにオレはキムさんという人の家に行ってみることに。目星をつけていた家の前に辿り着いた。しかし・・・その家の前にはFOR SALEと書かれた看板が立っている。
並びの家のバルコニーには人が多くいてレース開始を待っている感じだがその家だけは人がいない。引っ越してしまったか。
担当者の話も3年前のものである。キムさんがそこを引き払っていたとしてもおかしくない。一緒に来たT夫妻はあからさまに落胆した様子だ。だが、あきらめるにはまだ早い。
ちゃんと確かめもせず自分で勝手に結論付けてしまうほど愚かな事はない。隣の家の庭に椅子に座ってお茶を飲んでいるご婦人がいた。オレは彼女に近づき話しかけた。
「Excuse me. do you know Mr.kim?」
すると彼女は怪訝な顔をしながらも「Yes. He sleeps.」と。おおっ・・・・おっ!?
限りなくゼロに近いと思われた可能性が一気に膨れ上がった。その歓喜が意識の中に湧き上がってくる。そしてある一定のラインでブレーキがかかった。世の中、ちょっといい材料が手に入ったからといってその先も思い通りいくとは限らない。ましてやこのマン島ではすべてにおいて楽観は禁物である。なんせこの日のオレたちの命運を握っているキムさんという人物、この騒々しい環境の中でまだ寝ているという。って事は・・・レースに興味がないのか、体調があまりよろしくないのか。だいたいなんで住んでいるのにFOR SALEの看板がたっているのか。色んな事が頭の中を過っていく。その辺を確かめたいがそれを確認するだけのやり取りができるほどの英語力が今のオレにはない。ここで彼が起きてくるのを待っていた方がいいのか。しかし、レースが始まるまでに、いやコースが封鎖されるまでに彼が起きてこなかったら万事休すである。
オレは意を決して目の前のご婦人に「I want to meet him.」と。
もうこのあたりがオレの英語力の限界である。これでダメなら諦めるしかない。
彼女はしばし困り顔で考えた末に家の奥の方へ消えていった。その先、なす術もなく待つ事数分、彼女が戻ってきた。すぐ後ろにはボサボサ頭でひげ面のオジサンがついてきている。
どうやら彼がキムさんのようだ。彼を引っ張り出すことはできた。ここからが肝心だ。
こっちから図々しく中に入れてくれみたいなそぶりは厳禁である。彼の方から招き入れてくれるように仕向けなければならない。ハードルは高い。彼にしてみればオレなど初めて会う怪しい外国人でしかない。しかも寝起き。ここはかつて高額な布団を売りまくったオレの営業力をフル稼働させる必要がある。だが最大ともいえる武器である言葉がここでは通用しない。さぁどうするか。実際、情報として彼に関しては日本が好きという事くらいしかオレは知らない。ならばそこを最大限に生かすしかないだろう。
オレは片言の英語を駆使して寝ている所を起こした事をまず詫びた。そして旅行会社の担当の名前を出し、彼を覚えているか尋ねた。
するとキムさんはあからさまに明るい表情をつくりYes! と。彼は元気にしているか? みたいな事も返してきた。うん、なかなかいい流れだ。そしてここからはオレの方便としてのウソ、ハッタリである。彼は私の友人で当時、世話になったお礼に彼から土産を預かってきているという内容を身振り手振りで伝えた。そしてオレが自ら日本から持ってきた富士山の絵柄の扇子をキムさんに手渡した。この土産の効果はテキメンだった。キムさん大喜びである。さぁキムさんどうする?
ここで「じゃぁ、彼にありがとうと伝えてくれ。さようなら。」
なんて言われた日には身も蓋もない。しかし・・・事はオレの思惑通りに運んだ。彼は・・・早口でよくは聞き取れなかったが「レースを観ていくだろう。中で一緒に観よう。」らしき事を言ってオレたちを招き入れてくれた。念願のVIP席、ゲットである。
オレ達が入れてもらったバルコニーは真正面にあのイカれたジャンプスポットがある。
コースが閉鎖されれば遮るものは何もない。