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「PROJECT BIG‐1」をまとめあげ、続く1300を世に送り出したプロジェクトリーダー原 国隆氏。
時代の中心に輝くSUPER FOURゆえ、開発ストーリーは幾多の誌面で取り上げられ、すでに語り尽くされ、伝説の域にさえ達したと言っても過言ではない。
しかし、時が経ったことにより、見えなかったものが見えてくることもある。初代BIG-1から15年、設計の現場から離れた今だから思う、PROJECT BIG‐1とCBの未来を大いに語っていただいた。
※この記事はミスター・バイク2008年7月号に掲載されたものを再構成したものです。文中の肩書きや表記は掲載当時のものです。
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原 国隆氏
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1951年10月19日長野県生まれ。浜松製作所で組み立てラインに始まり、テストライダー、設計を経て研究所へ。RCB時代の耐久レーサーなどの開発に携わり、その後は市販車一筋。CB-1、ホーネット、V-Twinマグナ、X4などを開発責任者として手がけた。
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「ここまでの人生で最高の財産です」
原国隆さんに寄せられた、幾多の批評の言葉。共感あれば反発あり、それは自身の仕事に対する、とても愛に満ちた、鋭利な本音ばかりだった。
嬉しかった、よくやった。いや、ここはこうして欲しかった、CBはかく、あるべきだ。賛辞と叱咤が半々にディティールまでおよんでいて身体が熱くなった。社内のCB信奉者の生の声が、改めて原さん達がやり遂げた仕事の手応えとして、ずしりと効いた。
BIG‐1こと、CB1000SUPERFOURは、何の予告もなく1991年の秋東京モーターショーの舞台に展示された。今から思えば’90 年代初頭といえば、レーサーレプリカ群が断末魔の輝きを放ち、新興のネイキッドが試行錯誤を繰り返し、その戦線の空白を縫うようにアメリカンや単気筒も躍進、なんでもありの混沌とした時代、言い換えれば次の本命を誰もが待っていた。
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1991年の東京モーターショーに降臨したBIG-1はCBファンはもちろん、多くのバイク好きから熱い注目を浴びた。●撮影─衛藤達也
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翌’92 年春、BIG‐1は発売を開始。「BIG‐1」の名に恥じない大きな車格は、「誰がこんな大きなバイクに乗るんだ!」と言われた初代CB750FOURの衝撃に通じるインパクトを持って受け入れられた。
この時、原さんは、ホンダ社内でBIG‐1を購入した人たちに感想を求めた。「もちろんお客さんの意見は大切です。しかしみなさんご存じのようにPROJECT BIG‐1は、我々開発者側から提案したバイクです。だからBIG‐1を購入してくれた社員を調べて、80人ぐらいだったかな、全員にお礼方々、忌憚のない素直な意見を聞かせてくださいと手紙を書いたんです」
ホンダ・イコールCB。ホンダを志した者たちからの、賛否両論(そのほとんどが「CBを作ってくれてありがとう」というお礼だったようだ)が前記の財産である。
大きな会社になればなるほど、送り手とユーザーが多々共存するのが常。とにかく新車をという異常なバイクブームの頃ならいざ知らず、作り手側からの発信、しかもホンダの金看板を背負ったCBのフラッグシップをである。自らの「CB感」への是と非の確認だったのかもしれない。
「年齢や時代背景、バイクとかかわった巡り合わせ。それぞれに、多種多様なCBへの思い入れがある。共感なくして、技術屋のエネルギーは生まれません。自分の向いている方向が、果たして受け入れられるのか。信じた道に、ひと筋の光りはあるか。そのつき詰めに、CBを創りこんでいく愉しさと苦しみがあったんです」
1951年10月19日長野県生まれ。血液型O。
父がW1、兄がCB450に乗っていた。主と所を得た環境の単車少年は大学進学を目指していた矢先、父が急逝。進学を断念して就職の途へ。ホンダ浜松製作所の門を叩いた。
入所式には、兄のCB450で乗りつけた。視線の先には恋い焦がれていたCB750 FOURがあった。
「なんと表現してよいものか。まるでダイヤモンドでした。大きい、4発、かっこいい。とにかく、何から何までカッコいいのです。この時CBが心の奥底の深いところに刻み込まれ、モノ創りの節目ごとに浮かびあがってくるのです」
最初に配属されたのは中型車の組み立てライン。憧れのK0が続々と組み上げられていく姿を横目で見ながら、いつかいつかの日々を送った。願い続ければかなうではないが、「あいつは学校で図面を書いたことがあるらしい」ということで、技術設計へ異動。ここからが原さんのホンダ創りの原点となる。
CB‐1、HORNET、V‐Twinマグナなどなど氏が送り出した車両と業務のなかで、ポイントのひとつになっているのが伝説の耐久レーサーRCBや、スペンサーがAMAを走ったCB‐Fレーサーとのかかわり。
「いろいろやりましたよ。手探りの状態で。この頃のCBというのも、大きな深層海流のように流れているのです」
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今や伝説のレーサーの耐久レーサーRCBやAMAスーパーバイクを走ったCB750F。開発者である原さんの頭の中ではBIG-1の遠い先祖様と言っても間違いではないだろう。●CB750F撮影─依田 麗
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CB750Fが、第二世代ナナハンの代名詞だった。空冷16バルブ。街を闊歩していた昭和56年(1981年)を前後として、同車の系統を用いてのレースは超がつく花形だったろう。いみじくも空前の二輪ブームが沸き起り、CBの名を冠したバイクは単車の代名詞にもなる。
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百花撩乱の狂躁にも翳りの出てきた’80 年代後半。転機となる新しい創作のハナシが持ち上がる。
「レーサーレプリカ全盛のなかで、果たして次は……? とみんな思いはじめてました。自分らが、本当に乗りたいCBはなんだろう? 新しい時代を作ることは出来ないだろうか?」
最初は雑談程度。話すうちに、だんだん大きくなっていった。それを原さんは「アンダーグランド」という言葉を使う。正規に会議録がまわり、煮詰められていったものでないものという意味だ。しかし、技術者イコール熱烈な好き者集団でもある。その想いがアンダーグラウンドから表舞台へと姿を現わしたのだ。BIG‐1は、関係者の想いで作られたプロダクトアウトだった。
「お前がプロジェクトリーダーをやれって。最初は聞き返したんです。自身、たいへんな名誉ではあるけれど、本当にオレでいいのかと」
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1992年11月12日、発売開始を前に開かれた技術説明会にて。氏はそれほど語らないが、個性のぶつかり合いをまとめる気苦労も多かった。なんとなくげっそりしているように見えるのは気のせいではないだろう。●撮影─衛藤達也
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現行CB1300SFのタンクの上にもPROJECT BIG‐1というステッカーが貼られている。それは後世になってつけられたもので、当初はこんな流れから始まったのである。
「誰かが、どこかからエンジンを持ってきた。アンダーグランドですから、あるもので始めるしかない。ナナハンか1000か。喧々諤々となった。いまの時代、もうナナハンはないだろう。まわりはみんな1000以上だよと」
CBRの750と1000のエンジンがあった。フルカバードされたカムギアトレインの水冷だ。この1000のほうを使ってやってみるとなった時、原さんにはふと疑念が生まれた。
「一度カバードしたバイクを裸にするのだ。エンジンが剥き出しになった時に、当然、エンジンのデザイン力をも問われることになる。さらに吹け上がり感覚。乗り心地。空冷と水冷は完全に違うわけだし、CBファンの抱いている感覚にそえるものと言えば……」
空冷か水冷か。
同時にそれは、CB感の多様な広がりを認識する仕事になった。
「CBやCBX、そしてCBR。集まった技術者それぞれに、CBに対する想いがある。みんな熱いのです。世代があれば、趣向もある。経営としての一面も避けられない。ここをまとめあげることが、新しいCBを構築することでないかと開き直ったのです」
誰が言い出したのか、BIG‐1という名前が研究所内に広まっていた。CBR1000Fの心臓をベースに、プロジェクトは進行した。
「水冷だからできること。やるからには水冷らしさ。強い最新の直4のもたらす世界を表現したかった」
カバーのない、裸のバイクである。キャブレターの幅を詰める。ウエストが細まり、タンクの張り出しが強調されるようになった。そしてボトムアップされたヒップ。ワイドなふくらみ。
「ポルシェ911のリアフェンダーが印象にありました。タンクの大きさとバランスのとれるリアのカタチ。ここにもこだわりが出てきた。それを見た人が、いう。デカイなあ、本当にビッグワンだな、と」
フロントのサイズ径。17か18か。ここにも選択肢がある。ビッグを操る手応えのハンドリングなら後者だろうが、すでに18インチは、まわりを見渡してもない。
「いろいろ探して、イギリスに、18インチタイヤがあったのです。コレを取り寄せて付けてみました」
細部のつき詰めを進める一方で、原さんは海外にもリサーチをかけていた。ヨーロッパやアメリカ……カウリングモデルが主流の地域性に、ネイキッドの性格は受け入れられるのか。裸の大排気量は、注目されるのか。
「製作過程と共感を得るための作業が同時進行。手さぐりをしながら、ひとつひとつ組み上げていったのです」
こうして、冒頭のショー発表、翌年の発売にこぎつけたが、その発表直前の鈴鹿8耐。ここで、プロトタイプのCBが走ったことはあまり知られていない。本レースではない。マーシャルとして走った。お客さんに見てもらいたかった。
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「とにかく目立つんだ。直線を全部ウイリーで決めてこいとまで言いました。なんだ、あのバイクは……と、アピールしてどんどん注目されて、話題を集めたかった。そこで考えたのが、ピットロードからのウイリー走行……主催者側から怒られましたよ(笑)。
怒られるといえば、8耐にはホンダの歴代社長とか、OBとかもたくさんいらっしゃったんです。デモ走行の後呼び出され、『おい、あのバイクはなんだ?』と、また怒られる……と、背筋をぴんと延ばしてあいさつに伺うと『いいな、あれ。もっと派手にアピールしなきゃ』と激励されました。嬉しかったですよ。ちゃんと見ていてくれているんだって」
十数年後の2003年と2004年の8耐で、CB1300SFはレーサーとして本戦出場し里帰りを果たす。原さんが監督だった。
「デモ車として、お客さんに見せたものを、レースでも見せたかったと、長いこと、心の隅にひっかかっていた。このCBで8耐を闘う。ユーザーやファンの方も、喜んでくれたはず。8耐でたくさんのサインを求められましたから。楽しかったなあ」
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2004年のハチタイ。監督の原さんは脚立の上から満面の笑みで見下ろしている。厳しい開発現場から外に出た原さんは、その苦労を出すことなく、常に笑顔で取材に対応してくれた。●撮影─楠堂亜希
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大幅な車重増、シート高がさがり、排気量のあがった2代目の1300。空冷XJRというライバルの存在。ドラッグイメージのX4の開発……原さんにとって、BIG‐1は業務の幹となる歩みとなった。
CB1300SFは、さらなる進化をした。環境負荷のますますの軽減が、バイクに求められBIG‐1もキャブレターに変わり’03 年PGM‐FIを採用した。
「インジェクションは、セッティングの幅を広くとれる利点がある。とにかく味にこだわった。ホンダのバイクは味がないなあ、とは言われたくない(笑)。エンジンの感触と音。ズズズズ感とかドムドム感とか、訴えてくる味。気持ちよさです」
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2003年の東京モーターショーには、ハチタイを走ったCB1300レーサーも展示。共に闘った我が子を前に、原さんも満面の笑み。「モーターショーは大好きです。こういう発表の場を与えられることに感謝しています。この時CBが心の奥底の深いところに刻み込まれ、モノ創りの節目ごとに浮かびあがってくるのです」●撮影─楠堂亜希
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この仕事を節目に、原さんはCB業務を離れる。現在、ホンダロックという四輪二輪キーセットやドアミラー、センサー類を開発製作する会社で、忙しい日々を送っている。
「世代ごとにCBがあり、憧れやイメージがある。それが、うまく表現された製品が、ユーザーの方の納得の商品になると思います。国内外メーカー、みなそれぞれにアイデンティティーがあり、素晴らしいと思う。でも、ホンダにはCBがある。これは、コンビニやスーパーで売っているものではなく、うなぎ屋が作る本物のうな重なのです(笑)。共感を信じて創る手間暇かけて作った本物はおいしいはずです(笑)」
CBの志をつぐ者へ。また新しいビッグCBの出現はあるか。原さんは、そんなメッセージを送る技術者のひとりのようだ。
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初代BIG-1はデビューイヤーの1992年は11月末の登場ながら、939台(以下すべて本誌調べの登録台数)と401cc以上クラスで第2位の登録台数を記録。翌年は3946台で堂々の1位となった。以下’94年1515台(T2も含む)2位、’95年949台4位、’96年536台10位とベスト10圏内のセールを続け、’98年に後継の1300にバトンを渡した。
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■PROJECT BIG-1二十周年記念特別企画
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VOL.0 ハタチのBIG-1にスペシャルエディション誕生]
[VOL.1 今、もういちどBIG-1を語ろうか 初代LPL原 国隆氏インタビュー]
[
VOL.2 BIG-1大全 その1 CB1000SUPER FOUR(1992~1996)]
[
VOL.3 BIG-1誕生20周年記念フォーラム(動画付)
[
VOL.4 BIG-1大全その2 CB1300SUPER FOUR(1998~)]
[
VOL.5 「HRCにケンカ売ろうぜ1」 2003年8耐参戦]
[
VOL.6 CB1300STで「秋をおいかけて」(前編)]
[
VOL.7 BIG-1大全その3 CB1300SUPER FOUR(1998~)]
[
VOL.8 CB1300STで「秋をおいかけて」(後編)]
[
VOL.9 BIG-1大全その4 CB1300SUPER FOUR(2005~)]
[
VOL.10 BIG-1大全その5 CB1300SUPER FOUR(2008~)]
●[
CB400SUPER FOUR(1992〜2010)大全はWEBWEB Mr.bikeの旧サイトでご覧になれます。]
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