Hi-Compression Column

真美

原宿ホコテンに突如現れた
思想なき前衛ライダー
「ザ・モヒカンズ」って何だ?
いよいよ最終回!


(2010.9.21更新)

このコラム、『あん時の真実』(真実は、しんじつと読みます。“まみ”ではありません。

ワタクシ、“まみ”という女性とは付き合ったことはありませんから)の第1回と第2回とも「かくしてワタクシたちは、雨のそぼ降る2月中旬の日曜日原宿ホコテンを歩き出したのだった。」で終わっている。


いい加減歩き出しちゃえよっ! の声を後押しに、歩き出します、今回こそ。


当時のホンダ原宿本社前から明治通りを、表参道へ向かう。

雨は間断なく、降り続いている。

8人のモヒカンズは、背中を丸めうつむき加減だ。

世間に背を向けているのでも、斜に構えているのでもない。

ただ……ただ恥ずかしかっただけなのよ。


 編集長・オサムの、まるで思いつきの企画でね、モヒカンになってね、それでもちょっとお洒落心なんか出しちゃって、後頭部に“し”の字なんか残しちゃって……。

1982年当時、街にモヒカン刈りなんぞいなかったのだ。

だから、恥ずかしかったのだ。


表参道は、完全に歩行者天国だった。

でも、雨だから、あんまり人はいなかった。

良かった、良かった。


明治通りに出て、竹下通り方面へ向かう。

明治通りはホコテンじゃないから、歩道を、ちゃんと歩く。ルールは守るモザ・ヒカンズだったのだ。


で、ここで“あること”に、ワタクシたちは気がついたのだった。


あいかわらずうつむき加減でトボトボ歩いていた8人のモヒカンズなのだが、何人かが申し合わせたようにフッと目を上げたのだった。

その時だ。

つーか、“あん時”だった。


いまでもあの光景は、脳裡にハッキリと残っている。


ワタクシたちの目の前の人の群れが、さぁーっと左右に分かれたのだ。

ワタクシたちを、すなわち“モヒカン刈りで化粧した軍団”を避けるように、目を伏せ足早に去って行くのだ。


あん時、ワタクシたちは急に強くなっちゃった。

眉毛を剃ったオニーちゃんたら、もうオラオラ状態なのだ。

ミスター・バイク編集部員としては、大人の対応をするべく、それでもモヒカンズを演じて、あくまで無表情を決め込み、ガン飛ばすぐらいだった。って、それが怖かったらしいけど……。

本文には、こう書かれている。

「ハヤリに乗っているつもりはない。強いて言えば、知的エリートの遊び。思想? そんな物ははないさ。思想のないのが俺達の思想だ。竹の子? 子供はいいよ、別に」

「竹の子? 子供はいいよ、別に」と言いながら、脅かしてんじゃんか(見開きの右下写真参照)。


ミスター・バイクの中では使わなかったけれど、当時やはり流行っていたローラー族と喧嘩もしました、もちろんヤラセですが。

竹下通りを、原宿駅方面へ突っ切り、そしてまた表参道を下る。

強くなっちゃったワタクシたちモヒカンズは、そぼ降る雨の中を、背筋をまっすぐ伸ばし、しっかり前を向いて歩いたのだった(見開きの左写真参照。ちなみに左端がミスター・バイクBG編集長の渡辺君、真ん中がワタクシ、右端がオサム)。

写真キャプションにはこう書かれている。


横に連なって歩くと、まずたいていの者はよけて通る。“やさしい街”原宿に、暗い暴力の風が一瞬、吹き抜けた」


[第2回|第3回|第4回]
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モヒカンズ

※諸事情により写真をクリックしても大きくも小さくもなりません。ざんねんでした。


そして、オサムが言った。

「もういっか」

ワタクシたちのモヒカンズは、終わった。


でも、このアタマ、どーすんだよ!

いくらミスター・バイクだって言ってもよ、一応社会人だからよ、メーカーやショップの人たち、それに取材させていただく人たちにだって失礼だし、怖がらせるかもしんないじゃん。それに第一恥ずかしいもん!


「切った髪の毛は、時間がたたなければ元に戻らない。その間、日常生活に支障をきたさないところを見ると、確かに彼等は“知的エリート”と言っても、かまわないかもしれない」


支障をきたすでしょ!

それに、ボス(故・ボス渡辺、当時の社長で、怖かったんです、とっても)にも怒られそうだし、“知的エリート”じゃねーし。  てことで、編集部に帰って速攻坊主にしました。

ま、坊主は坊主で恥ずかしいけど。必ず訊かれるでしょ? 

「なんかやったの?」

そうでなくても、当時のミスター・バイクはいろいろお騒がせしてたから、またなんかやらかしたんじゃないか、と。


しかし、“ザ・モヒカンズ”には後日談がある。

“ローラー族”や“竹の子族”にもそろそろ飽きてきた当時の世間やマスコミは、若者の新しい風俗やムーブメント、流行を求めていた。

ここに、ザ・モヒカンズが現れたのだった。


ワタクシたちの知らないところで、ワタクシたちは凄い噂になり、有名になっていたのだった。

「この間のホコテンに、すっげぇ“族”を見た」

「モヒカンでさ、化粧しててさ、なんか不気味だった」

「子供じゃないんすよ。結構いい大人だったす」

「みんななーんにも言わないで、あっとゆー間にどっか行っちゃった」


次の日曜日の原宿ホコテンには、ワタクシたち“ザ・モヒカンズ”を探すいろんな雑誌社のカメラマンがたくさんいたという。

1ヵ月ほど、“ザ・モヒカンズ”を探していた、とも聞いた。

いるわけないじゃん、ワタクシたち“ザ・ボウズ”だもの。


1982年4月号P11〜13ページのモノクログラビア。

「雨の原宿に、モヒカンズの靴音が高く響いた。やさしいだけだった街に、嵐が吹き荒れようとしている」

ってキメるはずだったろうに……誤植かよっ!

※下の写真をクリックしてください。実に恥ずかしい誤植が見られます」


  • 写真4


  • (この章おわり)
    東京エディターズ代表取締役社長兼
    WEB Mr. Bike代表
    『中尾祥司拝。』
    中尾祥司
    ミスター・バイク誌の創刊からのメンバー(あん時ゃ下働きだったけど)。当初はフリーライターとしての契約だったが、「アイツの一ヶ月のギャラ、高いんじゃないか? 社員にしちまえ!」とゆー、今は亡きボス渡辺の天の声で目出度く正社員に。ちなみに給料は5万円弱だった(あん時ゃツラかった)。それ以前は、某政党の運動員(あん時ゃパクられそーになった)、シロアリ退治業者(あん時ゃ、「奥さん、ホラいましたよ」と用意してたシロアリを見せるよーな汚いマネはしなかった)、新宿ゴールデン街の某バーでバーテンダー(あん時ゃ呑めた、今は下戸……なんでやろ?)、そして「サイナラサイナラ」の淀川長治さんの映画の本を作る手伝いをして編集と関わる(あん時ゃ、「私は嫌いな人に会ったことがない」無垢な青年だった)。とゆーわけで、あん時ゃあーだった、こーだったとゆーハナシをしよう。あ、顔写真で、なんでマスクをかぶっているのかとゆー真相もおいおいに、ね。
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