Hi-Compression Column

真美

1980年に突然燃え上がった
「三ナイ運動」に立ちはだかった、
「バイク規制音頭」事件の真相。
書き出したら、書ききれないから
第一回。


(2010.10.22更新)

ワシらは権力が嫌いじゃったぁ。その権力を嵩に着るヤツらは、もっと許せなかったがじゃあ。

体制権力側は「交通安全」「人命尊重」という安っぽい大義名分の元に、「三ナイ運動」を推し進めておったがじゃあ。

 

いや、それ以前は「4プラス1ない運動」──すなわち、
1. 免許を取らない。
2. オートバイを持たない。
3. オートバイを運転しない。
4. オートバイに乗せてもらわない。
──の高校生を対象にした事項の他に、
5.オートバイを買って欲しいという子供の要求に負けない、
という項目を付け加えたのじゃったぁ。

ワシらは、突然燃え上がった「高校生免許取得規制」に待った!をかけるために立ち上がったのじゃったぁ。

 

そして、昭和55年(西暦1980年)の9月某日、事件は起こったがじゃあ。

世に言う、「神奈川県庁バイク規制音頭」事件じゃ。

……って、岩崎弥太郎風味の語り口(香川照之さん、ちょっと“歯”がきれいになったね)で続けるのもツラいがじゃあ……。

 1980年当時のミスター・バイク編集長はオサムだった。

 会議、っつー名前の「ちょっと集まってくれる?」の号令で寄り合いが始まる。

あーでもないこーでもない、と、徹夜だけは屁とも思わない人間ばっかりだから、徹夜すりゃ仕事してる気になってる人間ばっかりだから、当然徹夜の会議になっちゃうのだった。

たぶんあん時も徹夜はしたんだろな。

たいてい、「なんか面白いこと仕掛けたいなぁ」ってことで……。

 

で、突然誰かに、何かが下りてきて、「あ、そうだ京都に行こう」……、JR東海……、いや、グッドアイデアがでるって寸法だ。

 

ま、言ってみりゃ適当だったのね。

「あ、そうだ、神奈川が元凶なんだから、神奈川へ行こう!」ってことになった。

何で? とお思いの読者の皆様も多いとことでしょう。

その年の8月18日、
「神奈川県高等学校交通安全運動推進会議」
が、横浜市中区海岸通の港湾労働会館で設立総会を開いた。

 この会議の構成メンバーは県・市・私立高校の校長会代表、PTA代表、生徒指導担当教員代表、さらに公立中学校の校長会代表とPTA代表も加わった、総勢29名。

 

この設立総会で決定したのが、前述の「4プラス1ない運動」の展開だった。

ちなみにこの年1980年9月の時点で、「高校生の免許取得を規制している県」は全国で12県。

 

これに神奈川県が加わろうとしていた。

このままでは、「高校生免許取得規制」の火は瞬く間に全国に広がり、ニッポンでは「高校生はバイクに乗れなくなる」のは間違いなかった。

神奈川県高等学校安全運転交通推進会議は、神奈川県教育委員会、神奈川県警察との協力体制の元に、バイクを抹殺しようとしているのだ。

……今回ワタクシったら、マジメじゃん、なんだか。

そこでミスター・バイクが立ち上がったワケじゃ!

つーか、前回までは「モヒカン族」っつー風俗関係だったけど、今回は「社会派ミスター・バイク」の本領発揮じゃん!

ワタクシたち総勢10名。内訳は、男8名、女2名だった。

 

高校生らしく詰め襟制服と、セーラー服でキメた。

 

上は33歳から、下は23歳まで。平均年令は約27歳。

 

参加者を、一応紹介しよう。

 

大竹 オサム、当時編集長、『ケンタウロスの伝説』の原作者でもある

 

山崎憲治、当時独身、後の日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員長。

 

小宮山幸雄、当時のニックネームはミラーマン。

 

武井チエコ、当時未婚、その後、パキスタン、ニューヨークなどで過ごした。

 

杉浦 裕、当時新人、後のJ’s ティーポ編集長。

 

石井俊也、当時新人、その後、某有名作家のゴーストライターもやってた。

 

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三ない音頭

※諸事情により写真をクリックしても大きくも小さくもなりません。ざんねんでした。


落合弘志、やっぱり当時新人、現在も大変らしい。

 

ヤスコ、イチバンの若手。「お茶入れました」と言って、自分だけ熱燗を飲んでた。この企画直後、寿退社……でも……。

 

根岸康雄、当時若手ライター、現在古手ライター。

 

そしてワタクシ、当時ガリガリ、現在ダイエッター。

「県庁ん中で“三ナイ音頭”を踊りたいんだけど、イケる?」

 

県庁の敷地中に入って、バイク止めて、みんなで輪になって、なんですって? “三ナイ音頭”ですか? そいつを踊る、ってことですかい?

「そーよ! 神奈川県庁、ってのがひと目で分かってよ、全員のバイクを並べてよ、そいでもって“音頭”なわけよ。じゃないと、成立しないわけよ、この企画はよ」

 制服着た、ワケのわからん大人たちが、バイクに乗って県庁ん中に進入して、だいたいそれだけでも胡散臭いでしょ? でもって、バイク並べて、カメラマンに「そこのバイクもうちょい左に動かして」てなこと言われて、「この辺っすか?」なんて、ね。

 

んで、“ホレホレホレホ〜レ、三ナイ音頭ぉ”なんて歌いながら踊るんすか?

無理っしょ!

「かっこいい音頭、考えたんだけどなぁ……、せっかく!」

分かりましたよ!って、ついつい言っちゃった、ワタクシったら。

当時の神奈川県知事・長洲一二さんとは、ちーーーーーっと面識があったし、知事秘書はワタクシ目の身元保証人だったのだ……。

はいはい、訊いてみますよ。

 

知事秘書室に電話。

「なんだい? ショーちゃんか」

 

はい! ちっとお願いがあって……。

「お願い事以外で連絡してきたことがないけどね。で、なんだい?」

 

す、す、すんません……。でね、実はね、ミスター・バイクでね、ちょっと“……音頭”を作ってね(「……」の部分はモゴモゴと誤魔化した)、それを県庁の入り口前の広場で踊りたいな、って。でね、写真なんか撮りたいなぁ、って。いややややや……無理ならいいっす、無理にキマってんだから……。

「なんかモゴモゴ言って分からんが、すぐに終わるの?」

 

もちろん! 1分で終わります、終わらせます!

「分かった。係員に連絡しておくから。ホントにすぐに終わらせてね」

はい! あっちゅーまに!

しかし、ホントにオッケーしてくれるとは思ってなかったよ。

つーか、モゴモゴ言ったから、何をやらかそうとしているのか理解できなかったんだろな。

 

ってことで、タクト、パッソル、ユーディミニ、MT-5などにうち跨った怪しい大人制服軍団は、編集部のあった大田区南雪谷を出発したのじゃったぁ。

時は昭和55年9月の良く晴れた日じゃったぁ。

 威容を誇る神奈川県庁舎が、目の前にあったがじゃあ。


ってことで、“三ナイ音頭”事件の全容は次号をお楽しみに、じゃあ。

もちろんつづくぜよ。

東京エディターズ代表取締役社長兼
WEB Mr. Bike代表
『中尾祥司拝。』
中尾祥司
ミスター・バイク誌の創刊からのメンバー(あん時ゃ下働きだったけど)。当初はフリーライターとしての契約だったが、「アイツの一ヶ月のギャラ、高いんじゃないか? 社員にしちまえ!」とゆー、今は亡きボス渡辺の天の声で目出度く正社員に。ちなみに給料は5万円弱だった(あん時ゃツラかった)。それ以前は、某政党の運動員(あん時ゃパクられそーになった)、シロアリ退治業者(あん時ゃ、「奥さん、ホラいましたよ」と用意してたシロアリを見せるよーな汚いマネはしなかった)、新宿ゴールデン街の某バーでバーテンダー(あん時ゃ呑めた、今は下戸……なんでやろ?)、そして「サイナラサイナラ」の淀川長治さんの映画の本を作る手伝いをして編集と関わる(あん時ゃ、「私は嫌いな人に会ったことがない」無垢な青年だった)。とゆーわけで、あん時ゃあーだった、こーだったとゆーハナシをしよう。あ、顔写真で、なんでマスクをかぶっているのかとゆー真相もおいおいに、ね。
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