Hi-Compression Column

あんときの真美

(2011.4.25更新)

さて、今月はどの時の真実にしよっかなぁ……、と記憶の奥の奥の、もっと奥の方を探るのである。

しっかし朧気に何かが浮かんで、何かが消えていくのである。

しっかりせんかいオレ! と思う今日この頃だ。

1ヶ月放置してしまって、ダメだなぁオレ……なんて思っていると、「他の執筆者の方々に申し訳ないですから、早く書いてください!」などとキツ〜いお叱りを受ける。

これとて叱咤激励と受け止める、あくまで前向きなワタクシなのだ。

そういえば2〜3ヶ月前、ある編集部員が「おっ、お宝写真が出てきた!」とニヤニヤなのだ。

机の中に隠していたヤらしい写真を時々そっと見る中学2年生のようなニヤニヤなのだった。

それが、これだ。 

お宝写真

コーガンじゃん、ワタクシったら!

紅顔だしぃ、でもシェープアップされた体躯は引き締まってるしぃ、洗いざらしの真っ白なTシャツはDVDだしぃ、グラサンはレイバンのレディースだしぃ……。

ワォ! バックルはウイリー・ネルソンだぜ。

で、隣は?

 

高樹 澪さんである。


記憶が蘇ってきた。

  でも、ダンスはうまく踊れない、のである……。

  なんのこっちゃ。

たしか、高木 澪さんがデビューした翌年、『ダンスはうまく踊れない』が大ヒットしたはずだ

  で、ミスター・バイクの企画で『彼のオートバイ、彼女の島』の彼女を演じてもらおう、ってことになったのだ。

彼は? ってか? もちろんワタクシです。

う〜む……ポクポクポク……って一休さんかよ!

そーだ。

ミスター・バイクでは表紙になってもらった。その号を探そう。1980年代の初めのハズだ。

あった。1981年10月号であった。

その写真が、これだ! 

ワンツースリー!

1981年10月号

ペラペラめくって、彼のオートバイとか彼女の島とか探したけれど、そんなページはない。

ちょっと待て、沈思黙考。

そうだ。

ミスター・バイクで表紙を飾ってもらったり、当時ワタクシ目も編集部員としてやってたラジオマガジン(モーターマガジン社刊)でもインタビューしたりして、結構仲良しになっていたのだった。

マネジャーのフタバさんも、どーゆーわけかウチんチの編集部のことを気に入ってくれたみたいで、いろいろ便宜を図ってくれたんだった。

で、『ダンスはうまく踊れない』が赤丸急上昇中で大人気の高樹 澪さんに出演依頼しても、すんなりオッケーしてくれたのだった。

しかもノーギャラだった。

今じゃ考えられないんじゃないでしょうか? スタイリストいない、ヘアメイクもいない。

それが1982年10月号の『高樹 澪 片岡義男の世界を走る これが「彼のオートバイ」、ここが「彼女の島」』である。

巻頭カラー5ページを使っている。

 

高樹 澪 片岡義男の世界を走る

信州あたりでロケを行なった。

“カワサキのオートバイにまたがって、ぼくは、にぎりめしを食べていた。”──という書き出しで『彼のオートバイ、彼女の島』は始まるのだった。

場所は、“浅間のずっと左手に、菅平が一望”できる“千曲川をはさんで反対側、別所温泉の高原”なのだった。


右上へ

実際にこの場所で撮影したわけではないけれど、信州は信州だ。別に向きになるほどじゃないけどね。

ここで彼=コウ=ワタクシは、彼女=ミーヨ=澪ちゃんに出会うわけだ。

なんで「澪さん」から「澪ちゃん」になったんだろ?

それはね。

“とてもはにかんだような表情で、彼女は、微笑してみせた”んだし(ホントだ!)、“ほどよい長さの髪に、化粧っ気のない、小麦色の顔”だもの。

たまらんね。

高樹 澪 片岡義男の世界を走る

……コホン……。

話はクルッと変わって、この号の表紙なのだが、14人の男女が並んでいる。内訳は11人の男子に3人の女子だ。

前列の女子なんて、フレンチスリーブのシャツに、膝丈のスカート、真っ白いサンダルだ。バイクに乗る女子か?

1981年11月号

で、前列ほぼ中央でちょっと笑っている御仁だが、だれあろう伊丹十三さんである。

左端は、後にミスター・バイクやゴーグルなどでもお世話になった石井信平さん(番組プロデューサー、ライター)である。

お二人とも、残念ながら亡くなった。改めて合掌。

モノクログラビアのトップに、ワタクシは懐かしくて泣けた。

『おじさん達のハイティーン・ブギ 新宿カミナリ族、あれから13年目の真実である。福田文昭さんの『永続写真展』より、とある。

福田さんは、1968〜1969年、土曜の夜の新宿副都心に集まっていた新宿カミナリ族を撮り続けていた。

ホンダCB72、CB450、スズキT500、カワサキW1S……。時には200台以上のバイクが集まった、という。

しかし、新宿がパラダイスだった時間は短かった。副都心全域に“自動二輪深夜乗り入れ規制”が、69年7月19日スタート。

行き場を失った彼等は、次の場を求めた。

そして2度と再び集まることはなかった。

だが、福田さんは、違った。

「もう一度彼等を撮りたい」と思った。

彼等は、その時を懸命に生きていた。

福田文昭といえば、“張り込みの福田”として名を馳せた。

雑誌『フォーカス』の契約カメラマンとして多くのスクープをモノにした。

一番は、三浦友和と山口百恵のデート写真だろう。

キャップを目深にかぶった男と女。

男は女の手を取り、その場を逃れようとしている。守ろうとしている。

女のか細い手は男の手を握り、どこまでも着いていく気でいる。

この一枚を撮るために、何日間も張り込んだという。

だが──。

翌日、山口百恵はコンサートのステージ上で、三浦友和との交際を「告白」してしまう。

福田さんのスクープは、スクープではなくなった。

後に『百恵にフォーカス』という名の写真集が発表された。

 

ワタクシ、その写真集、持ってます。

またまた話は変わる、とゆーか戻るけれど。

マネジャーのフタバさんから電話がかかってきたのだった。

「澪がね、スターどっきりマル秘報告に出ることになりました。中尾さん達、協力していただけません?」

もちろん!

「ミスター・バイクの取材、ってことで秋川渓谷で撮影中にどっきりを仕掛けますから」

誰が?

「ヤだなぁ、中尾さん達が仕掛け人ですよ」

  は?

ってことで、フジテレビに登場したのだった。

それが何年の何月号だったか、分からんのだ。

来月までに探す、ってことで続くのだ。


東京エディターズ代表取締役社長兼
WEB Mr. Bike代表
『中尾祥司拝。』
中尾祥司
ミスター・バイク誌の創刊からのメンバー(あん時ゃ下働きだったけど)。当初はフリーライターとしての契約だったが、「アイツの一ヶ月のギャラ、高いんじゃないか? 社員にしちまえ!」とゆー、今は亡きボス渡辺の天の声で目出度く正社員に。ちなみに給料は5万円弱だった(あん時ゃツラかった)。それ以前は、某政党の運動員(あん時ゃパクられそーになった)、シロアリ退治業者(あん時ゃ、「奥さん、ホラいましたよ」と用意してたシロアリを見せるよーな汚いマネはしなかった)、新宿ゴールデン街の某バーでバーテンダー(あん時ゃ呑めた、今は下戸……なんでやろ?)、そして「サイナラサイナラ」の淀川長治さんの映画の本を作る手伝いをして編集と関わる(あん時ゃ、「私は嫌いな人に会ったことがない」無垢な青年だった)。とゆーわけで、あん時ゃあーだった、こーだったとゆーハナシをしよう。あ、顔写真で、なんでマスクをかぶっているのかとゆー真相もおいおいに、ね。

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