Hi-Compression Column

フツーのおとうさんのバイク生活・シーズン2

タカヤスチハル
タカヤスチハル
「もう30年以上バイクに乗ってます」と威張れるくらいず~っと乗り続けているのにちっともうまくならないへたれライダー。ふつーのお父さんは逆境にも負けず、ささやかなバイク生活を営んでいます、が……

「それでもまた夏は来る」

(2011.4.21更新)


まだ独身の頃、夏になると月〜金の有給休暇を取って9日間の夏休みを作り、九州か四国にツーリングに行くのが僕の毎夏の決まった過ごし方だった。

行きはフェリーで直接高知か宮崎へ、帰りは大概和歌山県までフェリーで戻ってきて大阪や名古屋の友人宅へ寄りながら帰ってきた。

一人旅だから計画らしい計画など何もない好き勝手なツーリングである。

地図でくねくね道を探して走り、暑くなったら海で泳ぎ、のどが渇いたら道端で一切れのスイカを買い、腹が減ったら土地の食べ物を食べる、そんなお気楽この上ないツーリングだった。

今にしてみるとなんてシアワセな夏休みの過ごし方だったんだろうと思う。  

雨の日もあったりするので全部が全部快適な日々とは言わないけれど、大体に於いて日本の夏らしい夏を最大限過ごせたような気がする。

僕にとっての夏らしい夏とは、もちろん避暑地でおしゃれに過ごす時間ではなく、青い空や、むくむくと湧き上がる入道雲や、草いきれの匂いだったりする子供の頃に過ごした夏が自分の中の夏らしい夏なのだ。

そう考えると、自分の子供達にもちゃんと正しい夏を伝えているかな?などとふと思ってしまうが、ま、自分の子供の頃だってどこかへ連れて行ってもらった事はそんなに多い訳ではないし、自分で自分の夏を作っていくのだから心配ないさ、とも思うけど…

なぜか九州や四国の特に街中から離れた風景には、僕が子供の頃に過ごした夏の記憶がたくさん見つけられ、それが楽しくてうれしくて、九州や四国へのツーリングが毎夏の過ごし方になっていったような気がする。

何故だろう?

バイクで走っているとその時々の季節を強烈に100%身体に感じることが出来る。

例えば真夏の1日をバイクで走るという行為は、その日その時の夏そのものをまるで自分の身体の中に取り込む作業をしているようなものだ。

もちろんこれは夏に限らない訳で、春の1日をツーリングに過ごせば全身で春を受け止めることになる。

かの清少納言は「春は曙(あけぼの)」と言い切ったけれど、もちろん朝だけが春の美しさではない。

菜の花や桜の花咲く田舎の道を、穏やかな日差しを浴びながらゆっくりと走る気持ちの良さはバイクじゃなきゃ味わえないものだと心から思うし(ホントは自転車や歩きが一番味わえるのだろうけど、こちらは距離が稼げないよね)、朧月夜(おぼろづきよ)の高原を里に向けて降りていく時の怪しい切なさ(なんだか現代じゃないどこかに迷い込んでしまったような怪しい気配)は時間と場所とバイクがうまく溶け込んで体験出来た不思議の世界だった。



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これも以前のツーリングでの経験だけど、桜の花が散る川面でバイクを止めて弁当のおにぎりをほおばった時のシアワセ感は、もう15年も過ぎてしまったけれど、未だに印象に残っている。

その時僕は「ああオレこの状況は一生忘れないだろうな。」と思った。

そしてその通り今も「あんな景色にまた逢いたいな」と思いながら日常を過ごしている。

ひょっとしたら以前に出会った季節の風景にまた再会することが僕のツーリングの目的の一つなのかもしれない。

「春夏秋冬」それぞれの季節をバイクと共に過ごす。これが僕にとってのバイク趣味の一番の理由なのかもしれないなあ。

2011年3月、自然の恐ろしさに打ちのめされた僕たちではあるけれど、それでも季節は巡り時は過ぎていく。

余震が続いていても桜の花は東北まで北上して来たし、やがて去年と同じ暑い夏がやって来る。

それであれば僕たちに出来ることは、今日の現実を受け止めて、少しずつであっても希望のかけらを探し出して集めていくことなのだと思う。

人の悲しみを思いやることの出来る想像力と、明日への希望を抱き続ける強い心を共に持つこと。

もし今年、趣味のバイクなんて乗り続けることなど出来ない位辛い状況の方ならば、いつかきっとまた昔と同じように季節のツーリングに行ける事を心の隅に置いといて下さい。

もし今年も例年と同じように季節を過ごせる人ならば、そうじゃない人もいるって事をきちんと認識した上で、ありがたくそのシアワセに包み込まれて下さい。

僕はそれでいいと思います。

僕自身がそうなのだが、日々の生活の術を失った方々を目にして「所詮趣味道楽のバイクをどうこう言ってんじゃねえ」という思いがどうしてもアタマをよぎってしまっていた。

でもやっと1ヶ月半ほど過ぎて自分なりに整理が出来たのは、「僕が自分の心を整えるためには、やっぱりバイクで季節の中を走ることが必要なんだ」ということだった。

僕はもうかなり長い、でもささやかな暮らしの中で「どんなに辛くても、また夏は来る」という確信めいた希望を持っている。

僕にとって特に、「夏」を確認することはオオゲサに言えば「自分が生きていること」を確認することでもある。

真夏の1日をバイクで走って「夏」を身体に取り込むことが「その年の僕が果たさなければならない約束事の一つ」なのだ。

多分僕だけじゃない多くのバイク乗りたちは、自分で意識しているかどうかは別にして、みんなそうなんだと思う。

だからみんなバイクに乗ることを止める必要はない。

バイクに乗ることで自分の心をシアワセに出来るのなら、明日への活力に出来るのなら、日常の現実や重さを越えるための糧になるのなら、乗り続けるのは正しいことだ、と思う。

少なくとも僕は、これからも今迄と同じようにバイクと共に季節を過ごしていくつもりだ。

そしてもし苦しいことがあっても、必ずまた夏は来る、と信じながら暮らしていく。


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