BAJA1000 戸井十月 PART2

11月19日、午前9時25分

トリニダットを後にした宮崎を追って走り出すサポートカー。2台で行動したサポートは、1台がエンセナダのフィニッシュライン付近で待機することにし、手塚が乗るもう1台は、太平洋側でレースコースが国道とクロスするサン・トマスへと向かうことにした。

クルマで移動する途中、長いスティントを終えた後田は言った。

「続けて走ります、って言ったことを走り出してすぐに後悔しましたよ。ウォッシュボードが延々続くし、道は分かり難いし。本当にGPSのナビが頼りでした」

そんなことを話しながら眠ってしまう。疲れたのだ。

エンセナダまで75マイル。時折、ものすごい勢いで四輪のサポートが追い抜いて行く。ヘッドライトの明かりで対向車の存在が分かるのを良いことに、ブラインドカーブでもガンガン追い越しを掛けてくる。彼らも必死だ。

エンセナダの喧噪が見え隠れするころ、夜が明けてきた。雨こそ落ちてこないが雲が厚い。3号線から1号線に折れ、南に向かう。片側3車線の道には普段どおりの時が流れ、バハ1000に参加している僕達だけがどこか浮き上がっていた。

朝7時過ぎにサポートはサン・トマスに到着した。この場所にも多くのサポートが集まっている。とびきり速くはないが、順調にやって来たチームばかりだろう。

全く確証は無いのだが、サポートカーでここまできた僕達には、何一つ疑念がない。もう完走するつもりでいる。その確信はどこからかは分からないが、心からリラックスしている。不思議だが、みんなそうだった。

「5時間はかかる」と言い残して走り出した宮崎が到着するまで、まだ時間がある。サン・トマスの、3号線沿いにあるカフェで朝食を取ることにした。食べ終わって一息ついたころ、宮崎が350 XCF-Wに乗って現れた。

海沿いまでのルートは夜明け前、震え上がるほど寒かったという。それでも、ここまで走った安堵感に包まれているのが分かる。

スタートから24時間が経過しているがどこか余裕がある。手塚がバイクを確認し、最後のメンテナンスを350 XCF-Wに施す。その間、宮崎は軽くエネルギーを補給して、走り出す準備した。セルフスターターを押すや、全く疲れていないエンジンはタフな鼓動をはじめた。350という排気量にして、すでに625マイルを走ってきたが、頼もしいの一言。

「じゃ、エンセナダで」片手を上げながら走り去る宮崎。彼を軽々と運ぶオレンジ色のバイク。その後ろ姿にサポートは一足先に完走を確信した。

多くのサポートが、レースが始まってから北に南に走り回っている。僕達もそうだが、四輪をチェイスする彼らは、その規模も人数もすごい。簡易整備工場みたいになったピックアップで走るチーム。これ、レーサー? と思えるほど改造された車で悪路でもかまわずサポートに入るチーム。つくづくこのレースはチームの勝負だ。このチームは一足先に撤収中なのだろうか……。
多くのサポートが、レースが始まってから北に南に走り回っている。僕達もそうだが、四輪をチェイスする彼らは、その規模も人数もすごい。簡易整備工場みたいになったピックアップで走るチーム。これ、レーサー? と思えるほど改造された車で悪路でもかまわずサポートに入るチーム。つくづくこのレースはチームの勝負だ。このチームは一足先に撤収中なのだろうか……。
サン・トマスでレースコースは1号線にぶつかる。その少し手前で見つけたテーブルとイス。“タコス、タマーレスあります”の看板。見物客相手に軒先でひと儲け? 前方に見る山から、マシン達が降りてくる。その向こうには太平洋が広がっている。
サン・トマスでレースコースは1号線にぶつかる。その少し手前で見つけたテーブルとイス。“タコス、タマーレスあります”の看板。見物客相手に軒先でひと儲け? 前方に見る山から、マシン達が降りてくる。その向こうには太平洋が広がっている。
サン・トマスに到着した宮崎。「あー寒かった」を連発。今年は特に気温が低かったようで、夜明け前のライダーは苦労をした。エンセナダのゴールまであともう一息。いろいろあって目標の24時間完走は果たせなかったが、ここまで乗り越えてきた満足感に包まれていた。
サン・トマスに到着した宮崎。「あー寒かった」を連発。今年は特に気温が低かったようで、夜明け前のライダーは苦労をした。エンセナダのゴールまであともう一息。いろいろあって目標の24時間完走は果たせなかったが、ここまで乗り越えてきた満足感に包まれていた。
いよいよ最後の62マイルに出発する。この先、プレランをしていないので、慎重に進むことになる。
いよいよ最後の62マイルに出発する。この先、プレランをしていないので、慎重に進むことになる。

11月19日、午後12時10分。

エンセナダのフィニッシュラインは見物客と帰りを待つチームのクルー達が集まり、独特のムードに支配されていた。それでも最初のフィニッシャーが戻ってきてから時間も経過しているし、その後は15分に1台来るか来ないか、というくらい間隔が大きく開いている。そのこともバハ1000というレースの大きさを感じさせていた。

どこからともなく聞こえるマリアッチ、Red Bullゲートを膨らませるための送風機とそれを動かすための発電機の音が混ざりあい、静かな土曜日の昼前の時間が流れていた。

ゴール地点にいるオフィシャルの元には手前2~3マイルの地点を通過したエントラントのゼッケンが無線で報告される。ポツリ、ポツリと戻ってくるエントラントをしっかりとゴールフラッグで迎えるためだ。

「なんだ、キミじゃないか」

そう言って戸井さんの肩を抱いたのは最初の交代地点にいたオフィシャルだった。彼の計らいで戸井さんはフィニッシュラインで戻ってくる宮崎にチェッカーフラッグを振ることを許された。

無線が鳴る。四輪のエントラントのようだ。5分ほどすると1台のエントラントが戻ってきた。スタートしたときはピックアップの体だったのだろうが、フレームだけが露出し、ボディーのほとんどが剥がれている。ドライバーとナビゲーターのレーシングスーツは埃だらけ。ヘルメットを取った顔にも埃がたまっていた。疲労感の中、目だけがギラギラ光る。

「フィニッシュすること、それが勝利だよ」

ベテランのオフィシャルがそう言った。

サン・トマスから62マイル。2時間もあれば戻ってくるのでは、と考えていた。しかし、このルートは意外と難所続きらしくフィニッシュした参加者は2輪、4輪問わず疲労の色が濃い。

このオフィシャルが戸井さんを覚えていた張本人。
このオフィシャルが戸井さんを覚えていた張本人。

ゴールラインの時間は過ぎていった。そろそろ来てもおかしくない時間ながら、待つ時間は長く感じる。30秒おきにスタートしたライダー達も、今はもうバラバラ。それぞれがそれぞれのレースを戦っている。時間からしておおかたフィニッシュしてしまったのだろうか。

オフィシャルに聞くと「まだ戻ってきていないのが沢山いるよ」とバインダーに挟んだエントラントのリストを見せてくれた。

29時間が経ったその時、発電機の音と送風機の音を破るように聞き慣れたエンジン音が目の前に迫った。

「あ、戻ってきた」

ゴールゲート前に212Xは現れた。「特別だぞ!」と言われた通り、戸井さんがフラッグを振った。

1998年にはロングディスタンスアワードも受賞した戸井さんに声を掛けるバハ1000の主催者の顔、サル・フィッシュ。1974年以来、このレースを参加者のために開催し続けている一人。日本からの参加者も少なくないため日本語の挨拶はひと通りマスターしている。
1998年にはロングディスタンスアワードも受賞した戸井さんに声を掛けるバハ1000の主催者の顔、サル・フィッシュ。1974年以来、このレースを参加者のために開催し続けている一人。日本からの参加者も少なくないため日本語の挨拶はひと通りマスターしている。
戻ってきた! の声に慌ててフラッグ。バッチリは決まらないのがウチのチームらしくもある(笑)。
戻ってきた! の声に慌ててフラッグ。バッチリは決まらないのがウチのチームらしくもある(笑)。

「あーーーっ、疲れたぁ!」と言いながらも安心した顔で、宮崎がヘルメットを外す。350 XCF-Wは最後まで全く問題無く走り切った。そして僕達のレースは終わった。212Xは29時間10秒で710マイル(1135キロ)を走り切った。長い1日と5時間はこうして終わった。

ゴールラインからバイクを押して歩き始めた時、同じエントラントの一人から声を掛けられた。

「やったな。ちょうど2週間前、マルコム・スミスの店でキミ達がバイクを引き取るのを見たんだ。日本から来てバハに参加するって聞いたけど、完走するなんてすごいよ。勝ったな、おめでとう。僕まで誇らしいよ」

当初、癌を克服した戸井さんを何とかバハ1000のフィニッシュまで、と思ってやって来たエンセナダ。しかしその目的がレース前に戸井さんの骨折という意外な形で変化した今回、結果的に完走することが出来た安堵はあったが、勝利という大きな実感はまだなかった。

でも時間を経て振り返ると、彼が言うようにバハへの一つの勝利だったとしみじみ思う。

実は過去何度もバハのレースが終わって顔見知りになったエントラント、サポート、そしてゴールの町にあるホテルやレストランのウエイターに至るまで、「Are you won the race ?」

と聞かれることが多かった。勝ったか? そのたびに完走はしたけど順位は○位だったよ、と答えていた。

すると、相手が「なんだ、勝ったじゃないか」と喜んでくれる。勝ってないけど……。優勝したか、という意味ではなく、バハとの戦いに勝ったか、という意味だったのだ。

実は以前から、成績より完走こそが勝利、これは誰もが口にする言葉だった。主催者のボス、サル・フィッシュもレース前日のミーティングでいつも話す。

「バハ1000は冒険で挑戦だ。でもスタートしてゴールまで無事に走り、そして家に帰ってその思い出を話すことこそが勝利なんだ。楽しんで。そして気をつけて」

本当にそうだ。かれこれバハと出会って24年経つが、初めてそのことが理解出来たように思う。

それと同時にその栄光を担ってくれたKTMのバイクこそ僕は誇らしいと思う。またこのバイクで走りたいね。それぞれがコテンパンにされても自然に口をついて出た言葉は本物だ。こうして2011年のバハ1000は終わったのです。 (終)

汚れたバイク、疲れた顔、でもエンセナダのゴールで人一倍嬉しい顔のエル・コヨーテの面々。バハ1000参加にあたり、ご協力頂いた皆さん、ありがとうございました!
汚れたバイク、疲れた顔、でもエンセナダのゴールで人一倍嬉しい顔のエル・コヨーテの面々。バハ1000参加にあたり、ご協力頂いた皆さん、ありがとうございました!

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