2017年9月20日

『世界最速へ!』 宮城 光の挑戦。

■取材・文:佐藤洋美
■写真:増井貴光

 
 2016年、宮城光は“ドライバー”としてボンネビル・スピードウイークに挑戦した。そして、ホンダS660をベースとした“S-DREAM”で二つの世界新記録を達成。
 そして今年、宮城 光が再び塩の平原に挑んだ。“ライダー”として──。マシンは旧車と言えるCB750FOURをベースとした美しいカスタムマシン“GEKKO=月光”。
「ボンネビルを訪れる人は2種類だ。もう二度と来ないか、毎年来るかだ。明らかに僕は後者だ」
 宮城 光の挑戦は始まったばかりだ。

 
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 映画『最速のインディアン』が日本公開されたのは2007年。この物語はニュージーランド出身のバート・マンロー(63歳)が、伝説のバイク「インディアン」とボンネビル・スピードウイークに出場して世界最速記録を樹立し夢をかなえる物語。映画のヒーローは若くて筋骨隆々なイケメンだと思っていたのが、主役を演じたのはお爺ちゃんのアンソニー・ポプキンス。でも、映画を観終わった後は、彼が愛おしく、ものすごくカッコ良く見えたのを覚えています。
「夢を追わない人間は野菜と同じ」「スピードに挑む時は5分が一生に勝る」「顔に皺があっても心はまだ18歳だ」「危険が人生に味を付ける、リスクを恐れてはいかん」と映画のプログラムの端に彼の名言が書かれています。「チャレンジして失敗を恐れるよりも何もしないことを恐れろ」と語った本田宗一郎に通じる心意気を感じます。
 
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ひたすら最高速を競う競技、それがレースカテゴリーのひとつである「ランドスピードレース」。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどで開催されている。その中でも聖地と呼ばれているのがボンネビル・ソルトフラッツ。ここで開催される代表的なレース、スピードウイークには世界中からスピードフリークが集まる。


 
 アメリカ合衆国ユタ州北西部に位置するグレートソルト瑚の西に広がる平原で地上最速を競うモータースポーツ、ボンネビル・スピードウイークの歴史は100年以上と古い。かつて最高速チャレンジは、ドイツのアウトバーン、アメリカのデイトナやオーバルコースが使われてきたのですが、スピードが400km/h、500km/hと伸びるにつれて走る場所がなくなり、見つけたのが冬は湖で夏になると干上がり、100平方マイル(260平方キロ)の塩湖の跡にできた平原(ボンネビル・ソルトフラッツ)でした。1960年代にはジェット機の実用化、空気力学の技術革新、大手メーカーの参入もあり注目度を集め、現在では世界で最も権威のある最高速競技として知られています。
 
 この場所に昨年の4輪に続き、今年は2輪で挑戦した宮城 光はこう語る。
「地球という大きな舞台を借りて、自分たちは走らせて頂いているという気持ちになる。記録を競ってはいるが、バトルがあるわけではなく、ただひたすら真っ直ぐに速さを追求する自分との戦いが繰り広げられる。
 難しい戦いであることから『ここを訪れる人は2種類あり、もう二度と来ないか、毎年来るか』だと言われている。明らかに自分は後者だ」
 
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ボンネビルで新記録を出した人はプログラムに掲載される。そして「200マイルを越えた人は、エベレスト登頂者より少なく、300マイルは、宇宙へ行った人より少なく、400マイルは、月に行った人より少ない」と称される。それぞれに赤、青、黒のキャップが渡され、それを被ってボンネビルにいると見る目が違い尊敬を集めるのだという。宮城 光は2016年の4輪カテゴリーA・グループ1・クラス4(レシプロ過給器エンジンの500~750ccクラス)でクラス世界新記録を樹立。ご自慢の赤いキャップは、時速200マイル、すなわち320km/hを超えて、なおかつ記録更新したドライバー、ライダーだけに与えられる。


 
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2016年は、ホンダの若いエンジニア達と、S660のエンジンをベースに250馬力まで引き上げた「S-DREAM」で挑戦した。そして4輪の「カテゴリーA・グループ1・クラス4」で新記録を樹立した。


 
 日本TVのMotoGP解説で知られる宮城は1983年はノービス、1984年には国際B級で無敵を誇り、ヒーローとなり、平忠彦と人気を二分していたライダー。その後ホンダワークスライダーとなり伊藤真一のチームメイトとして全日本最高峰クラス500㏄クラスで、ヤマハの平、藤原儀彦、スズキの水谷勝、辻本聡らとしのぎを削りました。その後、単身渡米して全米選手権SB600、SS600チャンピオンに輝き、帰国後は2輪、4輪を操れる“ドライダー”として活躍。ちなみに1999年には、4輪の国内スーパー耐久シリーズでチャンピオンとなっている。現在はホンダコレクションホールや、無限の電動バイクのテストライダーをこなすなど、バイク業界の第一人者です。
 その彼が、心を奪われたボンネビルは、神々しいほどの美しさと厳しさに満ち、参戦する人々を鼓舞する世界でした。
 
 宮城は2015年の夏過ぎにホンダからボンネビル行を打診されました。それに先立ち、将来に向けた技術開発と若手技術者の育成を目的として、四輪R&Dセンターでは入社3~5年目の若手技術者を対象に社内公募をしています。
 条件は2つあり“ボンネビル(スピードチャレンジ)の速度記録の大会に出ること。軽自動車のエンジンで出ること”でした。
 100名の応募の中から選ばれたのは20名、彼らは自分の仕事をこなした上で、残業時間を使い、このプロジェクト達成のために動き出します。若手技術者たちが、情報収集から設計、マシン製作、テストまでを担当。宮城はチームに合流して、レース未経験者の彼らが開発した“S-DREAM”のテストに加わって来ました。空気抵抗を極限まで低減した専用設計のストリームライナー型の車体に、軽スポーツカーS660用をベースに高出力型に改良したエンジンを搭載し、2016年夏「Mike Cook’s Bonneville Shootout」に出場することになります。
 
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車、バイク共に最高速を競うために其々にチューンナップやカスタムしている。それを見ているだけでもかなり楽しい。写真右下のバイクはバート・マンローの「World fastest INDIAN」。バートの甥であるリー・マンローが現代のインディアン社からエントリーしている。


 
 宮城にとっては、2001年のスーパー耐久十勝24時間耐久で優勝して以来のレース参戦でした。
「4輪のレーシングスーツは、通常トリプルレイヤーだけど、シックスレイヤーが必要だと聞き、6枚重ねなければならないということは、それなりに危険なのだろう」
 これまで、サーキットを走って来た宮城にとって、自然の大地を走る経験はありません。宮城にとってもホンダ社員にとっても挑戦でした。
「レーシングマシンは、情熱が走らせるのだということを伝えたかった。20人の情熱を一つにして走りたかった」
 それが宮城の思いでした。このプロジェクトのキーポイントは若い彼らの成長にあるため、得意分野での参加は認められず、それ以外の分野を担当して係わっていました。
「彼らは優秀です。知らないだけで、出来ないわけではなく、短期間で未経験分野のスペシャリストに成長して行った」
 
 様々な経歴を持ち、多種多様な人が集められていたこともあり意見も分かれることもありましたが、妥協することなく、空力を追求したストリームライナー型の綺麗な流線型の“S-DREAM”が2016年5月に出来上がりました。そのマシンを見て宮城は素直に「感動した」と言います。
 6月の後半には、そのマシンがアメリカに向けて出発。この”S-DREAM”は、軽スポーツカーに搭載されている660cc直列3気筒ガソリンターボ「S07A型エンジン」をベースとし、エンジニアがシリンダブロック、ピストン、クランクシャフトなどに手を加え、250馬力まで引き上げられ、流線型の美しいマシンは、ボンネビルでも注目を集めたのですが、記録が伸びませんでした。ボンネビルには多くのクラスがあり、5000馬力の巨大なマシンが走った後は、轍が出来、舞い上げた塩が新雪のようにふわりとつもり、その轍を隠します。真っ直ぐ走ること自体に、テクニックを求められるのです。クラッシュしたら、荒い洗濯板のような大地を滑ることになります。
「スピードを上げて行くと視界が確保できない。どうする? と聞くと、どうしようもないと言う。彼らにとったら、完璧なマシンを、これ以上、この現場でどうしろというんだって思うのは当然です。でも、じゃあ、お前たちはどうしようもなかったって、会社に戻って、ダメだって、一生、過ごせばいい。ホンダマンとして恥ずかしくないのか」
 宮城はそう恫喝したという。
 
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日本人のエントリーも少なくない。カリフォルニアに店を構えるブラットスタイルはインディアン2台をエントリー。


 
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同じくカリフォルニアのチャボ・エンジニアリングの木村さんは10年連続のエントリー。


 
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日本からZでエントリーしたブルーサンダース。


 
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マツダ・ミアータにロータリーエンジンを搭載してチャレンジした岡本氏。


 
 参戦1年目から記録を出すこと自体、ボンネビルを知る人たちにとっては、無謀な挑戦で、5年、7年、10年と通うことでノウハウがわかり、やっと記録にたどり着く人が殆ど。宮城自身も簡単に記録が出るとは思っていなく、何の努力もしないで、このままでいることが許せなかっただけでした。そして、彼らの中にも葛藤があったのではないかと言う。
「有名ドライバーだったら、このままでも記録が出るんじゃないか」と思ったはずだと…。それでも、宮城は引かなかった。彼らの、これまでの努力を知っているからこそ、引くわけにはいかなかったのです。
「レーシングマシンは、最後は情熱が走らせるんだ」と言い続けた宮城の言葉を胸に20人が心を一つにします。彼らは、宮城に突き離され、悔し涙を流しながら動き出したのです。
 
 宮城がコースに行くと、ボディが引きはがされたマシンがありました。彼らは段ボールを貼り付け、動作確認し、現地調達した部品を加工し、日本からスタッフを補強して、現地入りした時とは全く違う形状のマシンを短期間で作り上げます。当初は、お世辞にも動きがいいとは言えなかった彼らが、最後はレーシングメカニックへと変貌し、迅速で無駄のない動きを身につけるのです。宮城の見えないところで、彼らはボンネビルで記録を出す助けとなる動きを鍛錬していたのです。
 宮城もドライバーとしてのスキルアップに努めました。その全ての時間が、見事FIA公認クラス最高速記録達成として実るのです。
“S-DREAM”は、1マイル測定区間を261.875mph(421.446km/h)、1km測定区間の記録261.966mph(421.595km/h)という2つのFIA世界記録を達成すると同時に、2006年のBARホンダF1マシンの社内記録すらも更新したのです。また、驚異的な燃費性能でも注目を集め、ホンダの技術力の高さを示すことにもなりました。
 
「この挑戦は、ホンダがマン島やF1に挑戦したことに匹敵するものだったと自負しています。彼らの努力は並大抵ではなく、作り上げたものを壊し、現場で正に物造りを実践して、やり遂げたという自信は、きっと、彼らの今後の人生に大きなものを残したと思う」
 
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’73年モデルのホンダCB750FOURをベースにKiyo’s Garageが製作したランドスピードマシン「GEKKO(月光)」。フレームや外装、エンジンのコネクティング等のパーツはほぼKiyoことキヨナガさんが作成。カスタム車両の多いスピードウイークの中でも群を抜いて美しいホットロッドレーサーだった。


 
 そして宮城自身にも、胸を熱くする挑戦という火種を残したのです。この年、同じくスピードウイークにエントリーしていたKiyo’s Garage代表Kiyoさんが作成したCB750FOURのエンジンを二基積んだ“Gekko=月光”を見た宮城は、美しさに魅かれ「どうしてもこのバイクでボンネビルを走りたい」と思い、その場でKiyoさんに「乗せてほしい」と頼み込みます。二つ返事で「いいよ」と答えてくれたKiyoさんと約束を取り付けるのです。
 
 宮城は、再びボンネビルを訪れました。宮城が挑戦したのは、今年で69回を迎えるランドスピードレース。クラスによっては、時速600kmを超えるモンスターマシンが走っています。 
 宮城は、時速165mph(264km/h)クラスで300km/hを超えましたが記録更新とはなりませんでした。それでもGekkoは、2016年のカリフォルニアで開催されたカスタムショー『ボーンフリー』で優勝したマシン、デザイン優先のマシンが多い中で「Gekkoは、ちゃんと走るのが素晴らしい。そのマシンに跨ってチャレンジ出来たことが嬉しかった」と宮城は満足していました。
 
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810ccにスープアップしたCB750FOURのエンジンを2基搭載。ウエブカム、ウエーバーのキャブ等でチューニングしてある。ほとんどのパーツはキヨナガさんがワンオフで製作した。タンク等は横浜のアーティストLove Ear Artがペイント。


 
 この挑戦に、昨年、一緒に4輪“S-DREAM”で挑戦したホンダ社員もプレイベートで応援に駆けつけました。マシンを提供してくれたキヨナガ御夫婦と素晴らしい写真を撮っている増井カメラマンを加えた5人の小さなチームではありましたが、宮城の「走りたい」という純粋な情熱を支えようと集まった最高のチームだったようです。
 ボンネビルには、何十年も通い続けている人がほとんどで、「その人たちは、とても長いスパンで戦いを捕らえている」と宮城は語ります。年に一度開催される大会ですが「今年の塩では、記録は出ない」とマシンを下ろすこともしないチームもあり、また、自分たちが願う塩の大地の出現を1年待つのです。90代のドライバーが現役で記録に挑戦し、50代の息子に「こいつはまだまだ」だと言うのだそうです。
 
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加速区間が長いと言えどもスタートは重要。当初は塩のコンディションに悩まされた宮城だったが後半はコンスタントにパーソナルベストを更新した。


 
 帰国した宮城は懐かしそうに言った。
「ボンネビルに求められるのは、アクセルを開ける闘志よりも、しっかりとブレーキをかける勇気を持った大人のスポーツだと言うこと。ゴツゴツした大地を疾走するのは危険を伴う、ブレーキングの判断が遅れれば激しいクラッシュを引き起こし、命を落とす危険がある。 その限界を見極める経験と技量がなければならないということ。
 ボンネビルは終わったばかりなのに、また、走り出したくなっている」
 
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アメリカに渡って16年。独立しカリフォルニアでショップを構えたキヨナガ夫妻。彼らの前向きな明るさに癒されるレースウイークだった。


 
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 ボンネビルには数限りないクラスがあり、新設されたり、無くなったりするクラスもあるそうです。大きな資金を投入するチームもあれば、仲間たちとプライベートで、自慢のマシンやバイクでエントリーし、最速を目指す。懐の深さは、宮城が語った地球規模で、人間が作り出した車やバイクを使い、誰かと競争するのではなく、自分自身と真剣に向き合うことを突き付けます。
 今も地球のどこかに、最速のインディアンの主人公のように、人生を賭けて愛したマシンで、世界一を夢見るライダーや、ホンダの若手社員のように未知なる挑戦を掲げる者や、宮城 光のように生涯現役を掲げ挑み続ける人がいるのです。世界最高速に挑む人々の「聖地」ボンネビルは、これからも、様々な物語を紡いで行くのです。
 
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