11月14日──バイクにもバハにも馴れはじめたこの日、サンフェリーペから2時間ほどエンセナダ方向に移動。2度目のライダー交代となる場所まで戻りプレラン。このコース、1984年に戸井さんが初めてバハ1000に参加したとき、プレランで道に迷い、ガソリンを使い果たして、2日間彷徨ったというエリア。

 病気をやっつけ、再び挑戦するからにはこの場所を走らないわけには行かない、と肝いりで臨んだ走行ルートだ。途中にはガレ場の峠、粗目砂が延々続く道、硬い土の路面と岩が混ざり、時折、ベビーパウダー(というか小麦粉のようでもあります)の巨大プールのような場所も現れる難所がまんべんなくちりばめられた、バハの宝石箱のようなルートだ。

 バンからバイクを下ろしたスタート地点はGPSによると標高1000メートルちょっと。まるで高原の朝のような寒さはそのためだ。今日はこの場所でサンドイッチを作り朝食。そして走りはじめる。25マイルほど走ってガソリンを補給するためにサポートチームと合流。たいした量は入らないが、ここで満タンにすれば、次の燃料補給ポイントまで余裕で届く。そう、道に迷うかもしれないし、深い砂で燃費が悪いかもしれない。最初は1ガロンの燃料ボトルをデイパックに入れて持って行く計画だった。それは重くて大変だ、ということから途中給油に切り替えた。

 ここまで、土の硬いウォッシュボードが続いたが、次第にフラットな道になり快調な滑り出しだった。その後も赤い大地を縫うようにして走る道が時折直角に折れたりする道をたどりながら順調に進む。次第に道に岩が混じり出す。それが予告編のように次なる難所へとライダーを導いた。

 ついに戸井さんの記憶に残るガレ場の手前まで来た。そこで休憩。その時追い越していった4輪のプレランナーが苦しげなエンジン音を上げながら岩場を上って行った。10分後、ボク達もそこの登りにさしかかる。岩盤の上に散らばった拳大から子供の頭ほどもある岩が轍に転がる。それでもバイクは快調に上って行く。ここまでもそうだが、こうした難所でも戸井さんのペースは悪くない。スイスイ走っている。とても先々週まで癌治療をしていた人とは思えない。

 しばらく走ったところで戸井さんが、左側に現れたオフキャンバーになった岩盤で前輪を滑らせ右側の轍にフラフラッと寄った。運悪く、そこに散らばっていた岩でバランスを崩して左側に転倒をしてしまう。速度は出ていなかったが、肩から地面にたたきつけられるように落ちた。狭いルートで苦しそうにうずくまる戸井さん。バイクを安全な場所に停め、道の脇の大きな岩まで移動し、腰を落ち着け様子を見る。左腕を押さえ顔がゆがむ戸井さん。

写真に残るバハの道はどれもまっすぐで気持ち良い場所ばかり。難所では停まる余裕がないから。ホントは見た目より厳しい道を走っているのです、ハイ。この先、右ターン。二つ重なった矢印がそう告げている。 この日、サポートチームは移動中、こんな風景の中に伸びる舗装路(コレがバハの3号線)を走っていた。ボレゴの少し先に広がる直線道路だ。 朝食の準備をする戸井さん。ハム、チーズ、レタス、トマト、タマネギのスライスを個別に皿に盛りつけ後は人数分のパンを重ねてあっという間に朝食会場を造ってくれる。飲み物だってオレンジジュース、ソーダ、ミネラルウォーター、それに熱いコーヒーをお好みで選べる。

 しばらく時間が経過したがその痛みから普通じゃないことが分かる。これ以上バイクを走らせるのは無理だ、この日のプレランを打ち切ることにしよう。

 実はここからの退却行が今回のバハ参戦の中でも大きなドラマだった。転倒から1時間。たまたま携帯の電波が通じたその場所から僕はサポートに電話を掛けた。発信音が聞こえる。でもつながらない。「メッセージをどうぞ」なんて聞き慣れた声が流れる。コチラの状況を伝え、電話を切って他の電話に掛けてみる。どの電話も同じだった。
 
 昼を過ぎ、あと4時間で暗くなる。先ほどの舗装路から距離は25マイルほど来ただろうか。ゆっくり戻って2時間。サポートの居る場所まで走って2時間、今こそ行動し始めなければならない時間だ。

 2輪、4輪でその場所を通過するプレランナー達。彼らは僕達が止まっていることを心配して声を掛けてくれる。

 作戦はこうだ。戸井さんを後ろに乗せ、さっきの舗装路まで戻る。近くの町のカフェかレストランに戸井さんを送り、そこで待っていてもらうことにしよう。そして地元の人にお願いして、トラックでここまでバイクを取りに来れば何とかなるな、と。

 そうと決まれば行動開始だ。まずは戸井さんに平らな場所まで歩いて降りてもらう。麓ですれ違ったプレラン中の2人に僕達のサポートへのメッセージを頼んだ。2台の白いバン、5人の日本人が待っているから、「給油をしたサンタカタリナに向かう舗装路まで戻って欲しい、マツイとトイからだ、と言えば分かるはずだから」と付け加えて、2人のライダーを見送った。

 戸井さんのバイクは、転倒した場所から麓まで下ろし、コース脇に生えたブッシュの奥に隠しておこう。後で取りに来るときまで誰にも見つからず、ここにいてくれよ。おまじないとも祈りともつかない言葉を心で唱える。そして戸井さんを乗せて走り始める。デコボコ道を20km/h以下で走る。片手しか力が入らない戸井さん、タンデムステップなど上等な装備を持たないダートバイクだ。足は落ち着かないし、相当しんどいはずだ。

 舗装路までの半分ほど来ただろうか。もう小一時間走っている。一休みすることにした。訊いても仕方がないが「大丈夫ですか?」しか掛ける言葉がない。「行こう」──戸井さんの言葉はここにいても仕方がない、というあきらめにも聞こえた。天気もいい。風景はバハ・カリフォルニア北部のそれ。遠くまで見渡せる最高の場所だ。しかし、今はそれを楽しむ余裕は無い。

 しばらく狭いルートが続く。ブッシュが道の両脇に生え、見通しがあまりきかない。プレランとはいえ、逆走して戻っている僕たちの存在を他のドライバーやライダーが意識しながら走っている可能性は決して高くない。それにレース前になるとプレランの仕上げにペースを上げて走るのが普通だ。前からバイクが快調な音で走ってくる。コース脇のサボテンとサボテンの間にバイクを停め、やり過ごそうとした。

戸井さんとガレ場に入る前に僕達の目の前を通り過ぎたビートルのプレランナー。サポートが待つ場所を夕日を受けながら走り去ってゆく……。 ガレ場での転倒のあと、痛みが落ち着くのを待って退却を始めた直後、ガレ場を歩いて下り、サポートにメッセージを届けてもらうよう頼んだのがこの2人。トイとマツイだから、と伝えて送り出した。彼らはきちんとメッセージを伝えてくれた。実はヘルメットを被ったままだったので彼らの顔を見ていないのだが、レースのスタート前日、エンセナダでマッツイ、と話しかけられ、アノ後はどうだった? といきなり声を掛けられた。ありがとう。困っている人に当たり前のように親切。こういう感覚を忘れていた自分がちょっと恥ずかしかった。

「ベンっていう日本人を捜しているんだけど、知らないかなぁ」

 え、ベンでチュニジアにいったことがある、といえばオレもそうだけど? 思わず、キミは誰? と訊いてしまった。

「ライアン、ライアン・デューデック、チュニジアで一緒だった」

 お互いヘルメットを外す。すると、確かにチュニジアで会ったライアンがそこにいた。彼はサイクルワールド誌のオフロードエディターで、エンデューロクロスなどにも参加しているライダーだ。その彼とは2008年に行われたBMWの“GSトロフィー”というイベントで出会った。ドイツ、イタリア、スペイン、日本、アメリカの五カ国から6名ずつライダーが集まり、30台のF800GSでイタリアのミラノを発ち、ジェノバからフェリーで地中海を渡り、チュニジアで6日間の砂漠旅行(もちろんタダのツーリングではなく、ゲームを盛り込んだもの。ちなみに、こんな感じです http://youtu.be/_Rpg76h5vFU )。彼はアメリカチーム代表であり、取材者でもあった。僕は日本の代表チームに入り、取材をしていた。

 すっかり忘れていたけれど、あのイベント以来Facebookでも友達であるライアンに「バハ1000に今年行くよ」とメッセージを送っていたのだ。

 再開の歓び、というより驚きの瞬間だった。偶然にもほどがある。とにかく僕達の状況を説明した。そしてこうするつもりだ、ということも。するとライアンはいう。

「それならサンタカタリナに出る道より僕達がこれから出るアクセスを通ればいい。この先2マイルほど行くとホンダピットの予定地があるんだけど、そこから3号線に出られるんだ。逆走して行くよりその方がいい。GPSがあるから道も分かるし、僕達もそこから出て舗装路で待っているサポートと合流するところなんだ」

 渡りに船とはこのことだ。とにかく安全な方法で舗装路に出たい一心で彼らについて行くことにした。アクセスルートの場所は、さっき戸井さんと休んだ場所の目と鼻の先だった。ここであのとき休んでいなかったら、転倒した場所をあと5分遅く出ていたら、彼とはすれ違わなかったはずだ。なんだか、彼らを追いかけながら全身に鳥肌がたった。

 コースを外れ、牧場の柵沿いに走り15分ほどで3号線までたどりついた。そこには小さな店があり、ここなら戸井さんも待っていられる。あとはメッセージが伝わったときにサポートが分かるように、3号線から見えやすい場所にバイクを置いて……等と考えていた。

 ライアンのサポート2人に状況とこの後を説明した。すると、

「オーケイ。それならキミの友達は僕達が送ることにしよう。その方がここで待っているより快適だし、クルマで移動するから寒くもない」

 でも、現場に置いてきたバイクを引き取りに行かないといけないし、それにライアン達もこれから移動してプレランをするでしょ。いいよ、僕達はなんとかするから。

「大丈夫、そのバイクは彼(ライアンと一緒にプレランをしてきたKTM乗り。名前を失念!)がキミと一緒に2人乗りで行ってここまで乗ってくるから。クルマに乗せて彼と一緒に送るよ。それが良い。キミはそのままプレランを続けて、サポートと合流する。そして僕達とボレゴで合流すればなにも問題ないじゃないか。その方がいい」

 ボレゴとは今日のプレランの最終目的地だ。今、僕達のサポートはボレゴから50マイルほど手前にある巨大なドライレイクの鳥羽口でまっている。だから、そこまで僕に走れ、というのだ。でも、ライアンたちは今日、何処へ戻るの?

「エンセナダだ」

 だとすると軽く150マイル以上遠回りだ。予定が狂うよ。

「大丈夫。気にするな。その方がキミの友達のためにもいい。全く問題ないよ」

 正直、ジーンとするほど嬉しかった。

 申し訳ない、悪いよそれじゃ、という日本的思考を一旦停止して考えてみるとそれ以上の最善策は無い。それにバンを運転してきたライアンの友人はサンフェリーペに戻るなら、あの町には診療所がある。海岸通りにあるジョージズレストランのすぐ先を右に曲がって行ったところだから、診てもらった方が良い、とまで教えてくれた。偶然にもそのレストランは僕達が泊まっているレストランの目と鼻の先、というより昨日の晩に食事をしたところだった。

話掛けてくれたATVのライダー達が一休みしていたガレ場の峠のすぐ先であまりの絶景にバイクを停めた。峠越えのガレ場は言葉にするのが難しいほど荒れていて、とても停まる気にはなれない。ハイギアードにしたこのバイクだとローで半クラも多用した。スピード出したいけれど、出すと危ない。そんな場所を越えた先にあった展望台のような風景。でも、バイクから伸びた影の長さに秋の落陽の早さを知る。日が暮れる。砂漠での闇はルートをいとも簡単に迷わせるからだ。2回だけシャッターを押す。それを考えたらゾーっとしたからだ。 サポートの居るところに到着した瞬間。慌てている様子はけっこう暗くなり始めているのにヘッドライトすら点けていない自分に驚く。ナイスな夕焼けだったのに、記憶がほとんど無い。着替えてバイクをバンに積む頃には暗くなってしまったが、クルマでボレゴに向け移動を始めて、しばらくしてから我にかえったような気がする。ボレゴまでが長く感じた……。

 僕はKTM乗りを後ろにのせてレースコースに戻り、バイクの所まで引き返した。バイクはちゃんと待っていた。そして彼にバイクを託し、僕は走り出す前に予定変更のメールを打った。読むかどうか解らない。でもとにかく状況が変わったことを伝えたかった。そうしないと、最初の伝言で彼らが動き出したら、僕はドライレイクにアクセスする道でガソリンを使い果たすかもしれないし、サンタカタリナに戻ってしまった彼らは僕達を探そうにも探せない。戸井さんはボレゴ、僕はガス欠、と三者がバラバラになってしまうからだ。

 焦ってメールを打つと思うに任せない。すると、2台のATV乗りが僕の脇で停まった。

「大丈夫か? 話は聴いたよ。キミの友達がケガをしたんだってね。キミさえ良ければ僕達と一緒に走るかい?」

  KTM乗りはこの先1人でプレランをする僕を案じてすれ違ったこの2人にきっとそう話したのだろう。ありがとう、このメールを打ったら僕も走り出すけど、どうぞプレランを続けていて下さい、と伝えてとにかく先に行ってもらった。午後2時。太陽はどことなく西に傾きはじめている。例のガレ場を慎重に登り、岩の見本市のような状態になっている峠を越えた。その先でさっきのATV2人組が記念撮影をしていた。挨拶をして先に行く。すごい景色だ。

 プレランながらレース中のように心が騒いだ。待っていてくれ。ガレ場を過ぎ、深い砂の轍が続く道を駆け抜ける。このあたりが戸井さんを迷わせた場所らしい。太陽の角度でおおよその方角がわかった。ドライレイクのアクセスと交差するレースマイルが分かるようにマイルマーカーで停まってトリップの距離を合わせた。わずかな停止時間すらもどかしい。ガレ場を抜けてからはある程度ハイペースで走れるルートが続いた。しかし、砂に埋まった岩で何度かバイクごと跳ね上げられた。

 白っぽい砂に夕日が斜光を落とす。平らなのにまるでギャップがあるように見える。まずい時間帯だ。夢中で走り続けた。2時間半。ようやくドライレイクにたどり着いた。あと10マイル。全開で走り続ける。ガソリンのせいか、トップでの伸びが今ひとつだ。それでも90マイル弱で平らなドライレイクを突っ走る。あと2マイル、あと1マイル、ここだ、トリップメーターの距離とほぼ同じ場所に東へ向かう道(というかクルマが通った跡)があった。とにかく急いだ。長く感じた。でも遠くに舗装路を走るクルマが着けるヘッドライトとテールランプが見えた。その背後には砂丘。夕景に染まってオレンジ色だ。

 それより今は彼らが居るか居ないか。

「今さっきみんなで1台だけ来たらどうする、って言ってたんですよ。悪い予感的中じゃないですか」

 彼はそこに居た。安堵するのもつかの間、状況を説明し、バイクをバンに乗せ、移動の準備をした。ボレゴに向かおう。メッセージは届かなかったのだろうか。

「いや、30分ぐらい前に3人組のライダーが来て、プレランをはじめた場所に戻れ的な事を言われたんですよ。心配するな、彼らは大丈夫だから」

 それを聞いて、サポートチームは「じゃ、来るんだ。大丈夫なら」と思ったそうだ。なんたる偶然。ドライレイクからボレゴまでけっこうな距離があった。いや、長く感じただけかもしれない。6時半過ぎ、とっぷりと日の暮れたボレゴに着いた。真っ暗すぎて戸井さんとバイクが何処にいるのかすら分からない。

 ヘッドライトで何台か停まっているサポートカーを照らし出すと、その中にライアンのサポートのバンがいた。あれだ。てっきり戸井さんとバイクを置いて引き返したと思ったら、待っていてくれたのだ。

「読み通りの時間に来たね。どうだったプレランは? 彼ならバンの後ろでぐっすり寝てるよ(笑)」

 ニコニコしながらバンから降りてきた彼が示したとおり、後部座席で戸井さんは毛布にくるまっていた。良かった。

 丁重に礼を言い、彼らを見送り、僕達はサンフェリーぺに急いだ。結局、その病院は移転し、地元のタクシー運転手が教えてくれたファーマシーと診療所が一緒になった病院──その病院が閉まっていたので、他の場所を紹介してくれた病院──その病院では機材が無いから、と紹介された3つめの赤十字診療所でやっと診察を受けることができた。レントゲン写真は戸井さんの左腕に骨折があることを示していた。

万事休す。戸井さんは残念ながらレース参加を断念するほかなかった。(後編に続く)

サンフェリーペの赤十字診療所で診察を終えた戸井さん。ここにはレントゲン設備がなく、救急車でレントゲンのある施設まで戸井さんは移動。「親子2人でやっていてアーでもない、コーでもない、ってレントゲン一枚撮るのにやってたなぁ」と、バハでレアな体験をしている。その後、腕を固定するために包帯ぐるぐる巻きに。若い医師、看護師からメヒカリ(サンフェリーペから北に約90マイルほど)にある大きな病院での再診をすすめられた。 そして左腕上腕部に骨折が判明。嗚呼! こうして長い一日は終わった。