多くを望まない溶け込む黒、覚悟を決めた顔


※これ以降の写真をクリックすると違うパターンが見られます。

加減乗除の効いた「厚み」と「軽み」。快適さの追求に多くはいらない

『ついに出るぞ、満を持して』

と長く囁かれていたCB1100が登場して2年。そこにブラックスタイルが加わった。
 ボディそのものが引き締まった印象をうけ、光と影によっては違う車型かと見まがうたたづまい。
 自身、しばらくバイクに乗ってなかった。正直にCB1100にも初めての乗車だ。いきなりのイレブンかと多少の気負いがある。肩に力が入っていた。

 センヒャクである。新色のブラックは精悍に見えても、重量は243kgとある。リッターバイクだ。ところが走り出したら、ブランクからきていた「たじろぎ」がすっと霧散した。


CB1100

 空冷インラインフォアの1140cc。

 この排気量とは裏腹の、軽快で軽妙なフィールだった。強すぎず弱くないエンジンのツキと戻り。
 サウンドは排気量をじゅうぶん納得させる野趣がある。とりわけ目立つように取り付けられていない4in1マフラーが、かえって洗練されて見える。黒い車体と銀色のコントラストが冴える。

 大仰でなく小作りでもないエンジンヘッドの張り出しが、路面をどんどん吸い込んでゆく。


CB1100


街の華ぎを抜けて、戻ってきた道がある

 街から街へ。ストレート、カーブ、上り、下り。
 目をむけたところへ車体が向かい、開けたら進み、戻せばゆるむ。ストレートでは開けるし、カーブを認識すれば戻す。右手と右足で制動をかけて曲がるタイミングをうかがう。進角する方向へ、すっと身体が傾く。

 陳腐な表現だが、こんな当たり前なことが、とてもうれしい。
 当たり前なことが自然浬に繰り出せて、自身と1100の車体がひとつのパッケージになっていく。
 足付きがいい。ハンドルとポジションもラクだ。エンジンが司令塔として全体を支配して車体が組み上がっている気がする。二輪ならではの機関がビビッドに伝わる情感。

 走り出して10分ぐらいした時には、長く乗ってきたバイクのような感触をつかんだ。


剥き出しの気持ち、忘れかけていた少年の時間


CB1100

 本来、大排気量であっても、空冷のインラインフォアとはこんなタレント性だった。大きいのに軽い。それを感覚として捉えるならば、多分、エンジンという心臓の構造が軽いのだと察している。
 冷却に水を使わない。水を循環させる装置を必要としない。風とオイルで冷やすシンプルな機構。タンクの下に抱えている動力は、ゆえに乗り手に重圧を与えない。心臓にかかる「熱」という負荷が、走って風を受けることで抜けてゆく気持ちのよさ、素朴さ。

 それは人間に近しい馴染みやすさと捉えることもできる。

 空冷直4の魅力をとことん探り、現代の技術でさりげなく再起動をかけた。さすが空冷フォアでは一日の長にある元祖。そんな印象にこころが軽くなった。

 だから長く乗ってきたような感覚や、ある種の懐かしさのようなものにも感じ入って、ブランクのある中年ライダーは立ち所にいい気になったのである。
 かといって、その「ある種の懐かしさ」という感覚だけでは表現できない「なにか」がある。ここがCB1100が乗り手にあたえる思想の中心という気がした。

 それは率直に、大型二輪を知り尽くしたうえでの、快適さ、心地よさ、ではないか。チカラより気分。快適だから愉しくもなる。


先駆は思索の旅人、時代の道に句読点を打つ

 なぜ、大きなバイクに乗るのか。
 この問いかけには十人十色があるだろう。とはいえ、いざ自分が答えるには窮するものだ。でも、快適さ、心地よさ。これには普遍性がある。普遍は不変であり誰もが共に響く乗車の理由のはずだ。

 快適ならば、他所の負担がない。程よい追従と解放感。運転に集中する。集中はしているが物見遊山する余裕ができる。道すがらが楽しい。

 割り切ったような解りやすさを、CB1100ブラックスタイルは走るほどに語りかける。


CB1100

光と影、酸いと甘い。このCBは人生にも似て

 バイクに乗らない人でも「CB」の名前は知っている。
二輪車の象徴的な名称、はじまりの基部のようであり、バイク履歴の多い人には、深層底流のように感じる人もいるだろう。好む好まざるにかかわらず、きっと様々な「CB感」があるはずだ。

 CB感は世代ごとの時代背景や流行など、たくさんの要素が重なり一様ではない。この、くくれないところに、CBという二輪車の長く生きた時間と懐(ふところ)の広さがあるように思う。
 CB1100のスタイル、ポジション、性格、乗車フィールがここに至ったのには当然、時間の推移や体験、人生に等しく、様々な出会いや幾通りもの別れがあっただろう。
 辿り着くまでの過程を想うとき、このバイクには嗜好乗り物としての「厚み」と「軽み」があるのかなと感じたりする。
 ふたつが伴っての、快適さ、心地よさなのかもと。


CB1100

 過去を辿れば大排気量ジャンルのCBは、言わずと知れた1968年のナナハンにはじまり、16バルブ化の750F、900のF、1100のRやF。この時代には、どれもがつねに最強や最速を目指したランドマークとしてのCBだった。百花撩乱の昭和バイク元禄に深く刻まれる空冷インラインフォアたちだ。

 やがてV4と二頭立てになった頃から、CBRになり、一度はCBに名称は戻ったが、その後ろには「BIG1」や「SF」という名称がついた。この頃でも、やはり時代に見合った性能を堅持したい。水冷エンジンであることを利しての譲れない速度とパワー。これは送り手・乗り手双方の共通の認識だった。

 空冷のビッグネイキッドに先鞭をつけたのはゼファー1100だ。FJもカウルを外すことでXJRになった。
 バブル経済が崩壊して、世情は二極分化をはじめていた。まだなにかをしたいという機運を持った人と自省して別線に向かった人と。

 世情を映すバイクのなかで、ひとつ、レーシーな完全武装の形態から原点回帰の趣向が胎動した。足し算とかけ算のモノ作りから、引き算や割り算を盛り込んだ考え方。なかでCBだけが水冷だった。Rをとったカタチはネイキッドだが、SFとはスーパーフォアを謳っている。

 そして21世紀も10年を経た。そこに敢えて現れた「ホンダフォア」は、当然SFでない。その真逆とまでは言わないが、明らかに別々の車線を走っている。
 それはゼファーやXJRの歩んできた道に、もうひとつを積み重ねたい気持ち。おそらく、元祖としての提案の意義。

 大袈裟かもしれないが、加減乗除をより磨いて、洗練させる。そこが「厚み」と、もっともっと演出したい「軽み」なのかなと想う。
 足し算やかけ算の考え方を変えて引き算や割り算の個体にする。
 


CB1100

 
 ただ、それだけでは貧弱だったり物足りないものを感じる。そこでなにを引いて、なにを残すか。なにを足して、どこを退けるか。

 ひと頃の「断捨離」(だんしゃり)ではないが、本当に自身に必要な感触、欲するものだけを求める。あとは置いて行くこと。思い切って差し替えたり、取り払ったり。時にはこのブラックスタイルのようにまとうカラーを変えて装う気分を変えたり。
 前向きで凛とした転換の発想の結実を、とても解りやすくしている。
 たんなる剥き出し、ネイキッドでない、新しい一個体としての快適さ。
 これは何事にも通じる創作の勇気と覚悟ではないか。

 進化とは深化。二極分化のさらなるプラオリティのつけ方として解りやすい快適さ=愉しさを産出するために。
 工人の思想を推察するのに、このバイクはとても雄弁と思う。

「本当に欲しい快適さを求めた時、できるだけ少ない要素で満ち足りることができるはず」
黒い CB1100はそう言いたげに想えた。


CB1100


■HONDA CB1100 BLACK STYEL

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