ミラノで知ったピレリの本気と決意(前編)歴史の詰まったピレリの迎賓館で聞いた Made in Chinaの憂患とMade by Pirelliの安堵

ピレリ

 ここ数年、リプレイス用タイヤのテストが楽しみでしかたがない。最新のタイヤは、ウエットグリップの向上やハンドリングの良さ、グリップの良さなど、安全性の高さはもちろん「乗る楽しさ領域」を縦にも横にも広げてくれる。
 でもタイヤなんて、巧い人、速い人じゃないと分からない、と考えてしまいがちだ。その考えは早計。履き古したスニーカーから最新のスニーカーに履き替えたみたいに違いは誰にでも分かると思う。それぐらい裾野の広い違いを持っているのだ。
 中でもピレリ、メッツラーがリリースするスポーツツーリングタイヤの出来栄えは凄い。そこにはトレッドのゴムの素材や配合されるシリカの含有量といった素材面、それにラジアルタイヤの構造的な開発が進んだこともあり、寒い朝、雨の日など、特にライダーが体を堅くしてしまいそうな時でも不安感を相当低減してくれる。鼻歌気分、と説明するのが一番伝わりやすい。
 このピレリとメッツラー、実はピレリグループで、ブランドごとの商品展開をしている。そのメッツラーから2011年春にリリースされたスポーツツーリングラジアル、ロードテックZ8インタラクトはそれこそ金字塔だ。低温下での怖さがなく、雨の中も安心感ひときわ。ハンドリングがいいとかグリップが凄いとか、分かりやすい高性能、というよりも交差点を左折しただけでバイクに乗るのが楽しくなり、嫌だった雨もまた嬉し、と思わせるほどウエットを普通に走れる感覚にしてくれる。それでいてワインディングだって楽しい。その守備範囲の広さ、乗る楽しさを浮き立たせるタイヤ造りに感心するばかり。

 今回、そのZ8の進化版をミラノでテストする、というのが取材の大きな目的の一つだ。

 そしてもう一つ。ピレリはラジアルタイヤの需要が伸びるアジア地域の中で一つの決断をした。特に経済成長の著しい中国に生産拠点を設け、それを稼働させることになったのだ。そこで、中国で生産するにあたり、ピレリがどのようなクオリティーコントロールを行うのかを僕らを通じて多くのライダーに伝えて欲しい、というのが二つ目のテーマなのだ。

 これまでピレリ、メッツラーのタイヤはドイツ工場で生産されてきた。僕達が持つドイツ製品へのイメージは「マイスター」「頑固一徹」「高品質」「高性能」という言葉がスラスラと出てくる。逆に中国製品といえば「低価格」「ディスカウントショップ」「趣味物より実用もの向き品質」等々、経営者でもないのにそんな言葉が出てくるのではないだろうか。包み隠さずにいえば、その製品クオリティーはまだ日本製、ドイツ製には距離感がある、というのも正直な所だろう。

 
 つまり、だれもがイメージするその辺のことを、ピレリで二輪タイヤのマーケティングのマネージャーや、開発のトップ、そして走り屋揃いとして知られるテスト部門のトップから直接話しを聞くことで、しっかりと確認しようじゃないか、ということなのだ。

 


朝のミラノの渋滞を縫ってそしてピレリの本社へ

 宿泊したミラノのホテルは、地下鉄のレプッブリカ駅の近くにあった。かの有名なドゥオーモの大聖堂まで地下鉄で3つ目の駅、という距離感だ。グーグルマップで見るとそのホテルからピレリの本社まで北北東に7キロほどの距離であることがわかる。
 サルカ通りにある本社まで車で15分ほどの移動だった。その間、車窓からは市内の町並みが途切れることなく続いた。イメージとしてピレリほどの大企業だ。大手町風なオフィス街を想像していたが、ビジネス街というムードは少ない印象で、本社の入り口に巨大なCIがあるわけでもなく「え、ここが?」というシンプルな佇まいが逆に印象的だった。

 しかし、来社受付でゲストパスをもらい一歩敷地の中に入ると、広い芝生の向こうにガラス張りのモダンな社屋があった。さらに進むとかつてピレリがこの地でタイヤを生産していた当時に使っていた巨大な冷却塔がある。タイヤを整形する釜だろうか。それは10階建てのビルぐらいあり、まるでモニュメントのようだ。というのも、ガラス張りの建物に納められたそれこそ、タイヤ工場を今に伝えるものだからだ。しかもその冷却塔はオフィス機能を持たせている。アクセスする渡り廊下があり、その冷却塔の中も会議室だというからイタリアは建築、美術に長けたセンスに唸ることになる。

迎賓館
その建物は社内ではキャッスルと呼ばれ、主に重要な顧客をもてなすなど迎賓館的に使われているという。今回、プレゼンテーションを受ける場所として選ばれたのがまさにその「迎賓館」。存在感のある佇まいはすごい。↙
↘下草が刈られ、木々も綺麗に簡抜された整備された森の中にあるその建物に一歩入ったときの印象は、古い社寺に踏み入れた時のような荘厳さがあった。
1450年頃に建てられたこの建物は2階建てながら、四階建ての小学校の校舎ほどの大きさだった。日本が戦国時代に入る頃、ミラノのセレブはこんな優雅な建物で余暇を過ごしていた。アルシンボルディ家が建てたこの建物、その後何人かの城主をへてピレリ家の手に渡ったという。1910年に改修工事を行い、その後、戦時中は学校や孤児達の居場所として提供されたほか、工場で働く従業員の子供達の託児所的なスペースにも使われた。
大きな大理石で出来た床、模様が描かれた壁、絵も描かれている。天井は太い木製の梁そのものが装飾品のようになっている。階段の手すりは鉄製。綺麗なカーブを描く。なるほどキャッスル、城だ。歩いているだけで歴史感に圧倒された。

窓一つとってもこうなのである

天井には贅沢に木材を使った様子が伝わってくる
窓一つとってもこうなのである。 天井には贅沢に木材を使った様子が伝わってくる。

壁から生える明かりは、かつては蝋燭だったのだろうか。電球を外せば今でもキャドルを建てられそうな照明、壁には模様が描かれる・・・

大きなホールのような部屋を覗くと、豪華な木製の机と椅子が。まるで「最後の晩餐」が終わってみんなが帰った、かのような雰囲気が漂っていた
壁から生える明かりは、かつては蝋燭だったのだろうか。電球を外せば今でもキャドルを建てられそうな照明、壁には模様が描かれる・・・。 大きなホールのような部屋を覗くと、豪華な木製の机と椅子が。まるで「最後の晩餐」が終わってみんなが帰った、かのような雰囲気が漂っていた。

 イタリアのタイヤブランド、ピレリはミラノの地に1872年に創業した。今本社がある場所こそ創業の地だ。その当時ミラノの郊外にあたるこの場所は、工業地帯はおろか、市内の喧騒から離れた別荘ライフを楽しむような場所だったという。その本社敷地内には15世紀に建てられ何人かのオーナーを経てピレリ家の別荘として使われた建物がある。ルネッサンス時代にできその建物は現在来社したゲストをもてなす迎賓館として利用しているという。
 僕達が案内されたのはまさにその迎賓館。由緒正しいこの建物で我々もピレリがいかにアジアのマーケットを重視しているのか、中国工場での生産についてブリーフィングを受けたのである。


まずはピレリについて学習を

 その部屋で待っていたのはピレリの2輪タイヤ部門のマーケティングの代表でもあるウベルト・トゥーンさん、2輪タイヤのR&Dと生産部門のトップであるピエロ・ミザーニさん、そして2012年3月からピレリが新たなアジア戦略の一つとして稼動させている中国工場で2輪関係の仕事をとりまとめるステファニア・マシウロさんの3名だった。

 
 ピレリの2輪タイヤにまつわる市場動向やシェアなど概要についてスライドを交えて30分ほどプレゼンテーションを受けた。今年、創業140年であること、1922年からミラノの株式市場にピレリ株を公開したこと、160カ国にピレリタイヤは流通し、現在3万4000人の従業員を有すること。ブリヂストン、ミシュラン、グッドイヤー、コンチネンタルに次ぐ5位のタイヤメーカーでありモーターサイクル用ではトップのシェアを持つこと、そして、1986年にメッツラータイヤを傘下に収め、現在もこの二つのブランドを有機的に活かしそれぞれをコンペティターとして双方のキャラクターをしっかり立てている、ということ、900人のエンジンニアがタイヤの開発にあたり、多くの特許を取得、出願していること……。

 
 そしてホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ、トライアンフ、モトグッツィなどの各メーカーが売り出すプレミアム系モデルに、BMW、ドゥカティ、KTM、アプリリア、MVアグスタなどブランドのプレステージモデルにピレリはタイヤを供給している、ということ、今後数年に各セグメントに向け新しい商品を投入します等々、レクチャーを受ける。


今回、ピレリの中国工場の稼働について我々の疑問に答えてくれた3名。左から2輪タイヤ開発部門のトップ、ピエロ・ミザーニ、中国工場の2輪部門の責任者、ステファニア・マシウロ、そして2輪タイヤのマーケティングのトップ、ウベルト・トゥーン
今回、ピレリの中国工場の稼働について我々の疑問に答えてくれた3名。左から2輪タイヤ開発部門のトップ、ピエロ・ミザーニ、中国工場の2輪部門の責任者、ステファニア・マシウロ、そして2輪タイヤのマーケティングのトップ、ウベルト・トゥーン。


そして2輪タイヤのテストチームを率いるサルヴォ・ペニーズィ。シシリーをはじめ各地のテストコースを使い、中国生産のタイヤの性能を確かめた。ピレリ、メッツラーではこの男が首をタテに振らないタイヤは何処製であろうとも世に出ないそうだ。官僚的とかシミュレーションに軸足をおく企業には想像しがたいほど、「人」による官能テストが重視する。
そして2輪タイヤのテストチームを率いるサルヴォ・ペニーズィ。シシリーをはじめ各地のテストコースを使い、中国生産のタイヤの性能を確かめた。ピレリ、メッツラーではこの男が首をタテに振らないタイヤは何処製であろうとも世に出ないそうだ。官僚的とかシミュレーションに軸足をおく企業には想像しがたいほど、「人」による官能テストが重視する。

「工場が何処か、ではありません。我々が作るタイヤは、メイドbyピレリなんです」

 
 世界の製造業がそうであるようにピレリもアジアパシフィックマーケットの成長と拡大に注目している。欧州、日米とも需要が安定期、縮小傾向にあるなか、経済発展が進む中国エリアではビッグバイクの需要も伸びている。そして中国を軸に見ると、日本のメーカーではOEMタイヤの需要もあるし、環太平洋的視野まで広げるとオーストラリアには成熟したバイク市場があり、安定したラジアルタイヤの需要もある。その伸びを考慮すると需要拡大エリアでの生産を開始することでさらに供給への期待に応えたい、というのが中国工場でラジアルタイヤ生産を開始する理由の一つだ。

 ではなぜ中国に工場を据えたのか。例えばホンダの工場があるタイだって自動車産業の伸びは凄いじゃないか、と想像もめぐる。計画段階だが、実際にピレリはインドネシアにおいて小型車向けのバイアスタイヤ工場を立ち上げる計画を画策中だという。
 それには二つの理由があった。まずタイを含む東南アジアエリアで主流となっているバイクは、カブ、スクーターといった小排気量のバイアスタイヤを履くモデルだ。ではピレリの工場がある山東省エンシュウ市。ここは中国で四輪用ラジアルタイヤを生産する工場があり今回2輪のラジアルタイヤを生産するのも同じ工場だ。BMWやアウディなどに納入するタイヤ造りをするこの工場には、ラジアルタイヤの肝でもあるスチールベルト、素材となる天然ゴム、そして配合するシリカなど、原材料を納めるサプライヤーが存在し、四輪用と合わせたスケールメリットもあるという。
 その工場で新たにバイク用ラジアルタイヤの生産を始めるにあたり、ピレリは既存のドイツ、ブロイベルグ工場が羨むような最新の機材を投入した。また、人材面ではイタリア本社からエリート技術者を送り込み生産企画もミラノと合同で進めるという。ここが注目のポイントだ。単なる生産現場ではなく言ってみればR&D機能も持たせるという。
 また現地で働くスタッフはブロイベルグ工場で1ヶ月に及ぶ研修を受け、ピレリがうたうタイヤ造りの魂をたたき込まれたという。この研修は定期的に行われる。
「ピレリの工場で働く人は、言ってみればブロイベルグの工場もエンシュウ工場の人も“ピレリ人”です。そうなってもらうトレーニングです」。つまりその内容がドイツも中国も国境は存在しないと強調する。
 中国工場の2輪生産ラインはマックスで15本入るキャパシティーを持っているという。現在稼働しているのはそのうち2本だけ。フル操業からは比較にならない規模だ。ドイツより生産コストも安いのになぜ? そんな質問に対しピレリの回答は明快だった。


ドイツと同じレシピで作るのではなく、ドイツ製と同じ性能を有する事。それが大切だ

 しかもその2本のラインで生産するのは既存のプロダクトであるピレリ・ディアブロ、ピレリ・エンジェルST、そしてメッツラー・スポルテックM5。どのモデルもデビューから2年以上経過した定番タイヤ達だ。ならば工場のラインに具材をほうり込み、スイッチを入れればベルトコンベアの上を大量に完成品が流れて行くのでは、と僕は思った。
 しかし、ピレリのタイヤテスト部隊のボス、サルヴォ・ペニーズィは語る。
「ドイツで作られたもののレプリカであること、つまり同じものであり、同じアウトプットがあることが何よりも重要です。求める性能どおりの製品が生まれることが一番で、何処で作るかではありません」。
 既存のプロダクトだからといって、狙いを決め、企画し、設計し、テストを重ねて決めた仕様の製品に「我々が作った物はこれだ」と言える物を生産する必要がある、というのだ。

「ドイツと中国のサプライヤーでは天然ゴムやスチールベルトにも微妙な製品の違いがあります。だから何を何グラム、これをこの分量で、という同じレシピで作っても微妙にフィーリングが変わる。それを中国で仕入れた物でドイツと同じ性能を出すように調整する必要がありました」。そうペニーズィは語る。

「2012年、1月19日に初めてのテスト用のタイヤが中国から送り込まれ、私達は徹底したテストを開始しました。今年、3月1日からの本生産までの間に、433もの走行安定性評価、操縦性のテストを行い、290に及ぶドライセッションでのテスト、105回の高速安定性の評価テスト、南イタリアにある超高速テストが可能なナルドで5回のテストを行い、33回のウエット評価テストを行っています。もちろんマイレッジ評価もしています。
 こうしたテストの総走行距離の合計は100万キロに及び(中国生産のタイヤの仕様確定のために年間テストの総走行距離に匹敵する距離を短期間でこなしたことになる!)、、前後合わせて410本のタイヤを消費しています。どのテストも同じ条件で2人のテストライダーが評価し、2セットのタイヤを試すことで結果が同じかも確認しています。また、ベンチテストでデータを取り可視化してその結果の比較も当然しています。全てのテストは6日以内に報告され、製品補正に反映されました」。


サルヴォ・ペニーズィ氏は今回、メッツラーZ8Mインタラクトという新製品のテストもミラノで行ったが、進化したウエット路での性能を確かめよ、とばかりに先導されたずぶ濡れのハンドリングコース(ミニサーキット)で数ラップ引っ張ると、サルヴォは我々をスーとぶっちぎる。「な、大丈夫だろ!」とばかりにタイヤの性能を体現してみせた。
サルヴォ・ペニーズィ氏は今回、メッツラーZ8Mインタラクトという新製品のテストもミラノで行ったが、進化したウエット路での性能を確かめよ、とばかりに先導されたずぶ濡れのハンドリングコース(ミニサーキット)で数ラップ引っ張ると、サルヴォは我々をスーとぶっちぎる。「な、大丈夫だろ!」とばかりにタイヤの性能を体現してみせた。

 フランスで修行を積んだパン職人が日本に戻って同じレシピで作ってもどうしても本場の味が出ない、その答えは日本の水とフランスから仕入れた小麦粉の相性にあった、なんて話をテレビで見たことがあるが、まさにそのあたりの違いが製品になったときに現れるのだろう。

 ピレリのテスト部隊がとにかく走りこんで製品を造ることは耳にしていた。ピレリはイタリア内外のテストトラックでテストをし、ブラジルにもミラノ郊外にあるウエット用テストコースと同じレイアウトのコースを持っている。冬のミラノで月曜にテストしたバイクをエアカーゴで南半球のブラジルに運び、金曜には真夏のテストができるんだ、と語っていた。
 テスト部隊が本拠地を置くシシリー島には世界各地の路面に酷似した路面がそろうという。タルガフローリオという公道レースがかつて行われたルートも使い、世界戦のエンデューロも行われるきら星のようなオフロードも存在する。全てがそろうシシリー。その恵まれたテスト環境で鍛えるタイヤ達。年間100万キロを走るというテストチーム。その数は各セグメントの責任者4人と12人のテストライダー、そして8人の技術者、管理とロジスティックスを担う2人を合わせ、全部で26名のスタッフで構成されている。実働部隊の数から総走行距離を割り出せば、どれだけ走っているのかもおわかりいただけるだろう。
「もちろん、インドアでのシミュレーションテストも重要です。しかし実際に走って得たアウトドアのテストでの評価こそタイヤを育てると考えています」。

 ピレリとメッツラー。実は同じテストグループがテストをして製品を送り出している。しかし、双方の乗り味はそれこそドイツとイタリアの味に分けられるほどしっかりとした違いを持っている。
「ええ、同じスタッフでテストをしています。私達には不文律があってそれぞれのブランドをテストする時にはユニフォームをそのブランドのものに着替えます。それぞれのブランドがもっているキャラクターに自分達もなりきるためにね」。

 そして中国工場の代表を務める女性、マシウロさんは、もともと初代ディアブロ・コルサの開発担当だ。彼らがどれだけ総力戦で中国工場での生産に当たっているかが伝わってくる。だからこそ、機会があったら彼らが中国で生産したタイヤとドイツで生産したタイヤの履き比べをして同じ味かどうかを確かめたい。むしろそれを彼らも望んでいるに違いない。そう思いながら本社をあとにした。
(試乗・インプレの後編に続く)


本社の敷地にあるピレリ・ミュージアムにも足を運んだ。ドアを開けた右側の壁にあったのは現在、ピレリが独占供給するF1タイヤ(左)、1930年代のレーシングタイヤ(中上)、1950年代のF1タイヤ(中下)、そしてひときわ大きな右端のタイヤは、1907年に行われたパリ〜北京エクスペディションに参加したイタラに履かせたタイヤ(のレプリカ)。クルーはシッビオーネ・ボルケーゼ、ルイジ・バルツィーの2人。彼らは見事に優勝を果たした。当時タイヤはカーボンがブレンドされてなかったため本物は黒くなかったという。ちなみにホイールは木製。そのでかさは現代のF1タイヤからご想像いただきたい
本社の敷地にあるピレリ・ミュージアムにも足を運んだ。ドアを開けた右側の壁にあったのは現在、ピレリが独占供給するF1タイヤ(左)、1930年代のレーシングタイヤ(中上)、1950年代のF1タイヤ(中下)、そしてひときわ大きな右端のタイヤは、1907年に行われたパリ〜北京エクスペディションに参加したイタラに履かせたタイヤ(のレプリカ)。クルーはシッビオーネ・ボルケーゼ、ルイジ・バルツィーの2人。彼らは見事に優勝を果たした。当時タイヤはカーボンがブレンドされてなかったため本物は黒くなかったという。ちなみにホイールは木製。そのでかさは現代のF1タイヤからご想像いただきたい。





館内の一部屋、気温20度、湿度50%の定温管理された部屋のラックを開けると、かつてピレリが広告で使った有名画家によるイラストの原画など貴重なものが保管されている。創業当時、タイヤばかりではなく衣類も手がけていたピレリ、その後は湯たんぽ、氷嚢、ラバー製の人形、パンプスに着ける雨よけのカバー、レインコートなど衣類というよりファッション部門があった、と紹介したいほどスタイリッシュな製品を送り出していた。


この人こそピレリの創業者、ジョバンニ・バティスタ・ピレリ

創業当時のピレリ(左)、そして20世紀初頭、今から100年以上前の工場と従業員。衣類を生産したことで、針子として女性が多く働いていた。写真には子供達が多く写っている。「迎賓館」が託児所として機能していた史実を裏付けるもの
↑この人こそピレリの創業者、ジョバンニ・バティスタ・ピレリ。
←その中に残る当時の町並みを俯瞰した一枚。一番左端が工場のある敷地。そしてオレンジ色の屋根が並ぶ家々は、従業員のために作られた住居だという。この建物は現存する。周りは農村の風景が広がるのが分かる。
創業当時のピレリ(左)、そして20世紀初頭、今から100年以上前の工場と従業員。衣類を生産したことで、針子として女性が多く働いていた。写真には子供達が多く写っている。「迎賓館」が託児所として機能していた史実を裏付けるもの。

かつてカール・ルイスを起用した広告で使われた赤いパンプスも展示されていた

かつてピレリが製造していたアンダーウエア

時代、製品、ピレリのブランド性を今に伝えるイラスト群。館内を案内してくれたスタッフによると、画家のパトロン的存在でもあったという

かつてカール・ルイスを起用した広告で使われた赤いパンプスも展示されていた。 かつてピレリが製造していたアンダーウエア。 時代、製品、ピレリのブランド性を今に伝えるイラスト群。館内を案内してくれたスタッフによると、画家のパトロン的存在でもあったという。


ミラノの大聖堂。賑わいを見せる街並。かなり離れないと一枚に収まらない大聖堂、ドゥオーモ。近づくとそれは芸術性の高い美術品の集合体のような建築で、教会内も荘厳なまでの装飾が施されている。そうした視点に長けた人がみればまさに「お菓子の家」なのではないだろうか

バイクを停めるにストレスはなさそう。これが至る所に見られるミラノの街並。もちろん、多い少ないはあるが、完全に市民権を得ている。バイク、クルマのメーカーが日本同様に多く、サッカー、自転車やその競技、芸術に建築、あらゆる物の基準が美意識と歴史感が混ざり合う中に上手く混在している

大聖堂から歩いて5分の距離にあるフェラーリストア

ミラノの大聖堂。賑わいを見せる街並。かなり離れないと一枚に収まらない大聖堂、ドゥオーモ。近づくとそれは芸術性の高い美術品の集合体のような建築で、教会内も荘厳なまでの装飾が施されている。そうした視点に長けた人がみればまさに「お菓子の家」なのではないだろうか。 バイクを停めるにストレスはなさそう。これが至る所に見られるミラノの街並。もちろん、多い少ないはあるが、完全に市民権を得ている。バイク、クルマのメーカーが日本同様に多く、サッカー、自転車やその競技、芸術に建築、あらゆる物の基準が美意識と歴史感が混ざり合う中に上手く混在している。 大聖堂から歩いて5分の距離にあるフェラーリストア。








そんなミラノにあるピレリのPゼロショップ。ピレリとアパレルのコラボ? くらいに思っていたが、本社のミュージアムで歴史を目の当たりにしたあとにこちらにやってくると、ピレリというメーカーの歩を綺麗にフォローする商品群、ブランディングに感動することに。同郷のアルファロメオの博物館からティーポ33が、そして鮮やかなブルーのランチア・ストラトスが、そしてジレラの古いサトルゥノが・・・・。おいてある椅子にまでビンテージスポーツカーの室内を思わせるバケット調のものが置かれていたり、非売品ながら、長靴やラバーのオモチャ、などがかざってあったり、ゴム引き風レインウエアがあったり、オールドスクールなロードレーサーに真新しいチューブラーホイールを履いたモデルがおいてあったり、もうそれはそれは勉強になるショップでした。

ホテルの目の前の通りにあったバイク用パーキング。昼間はバイクがいっぱいで白線すら見えなかったが、夜になるとご覧のとおり

ホテルの前に停まっていたFXSTC

こちらはVRSCDX

ホテルの目の前の通りにあったバイク用パーキング。昼間はバイクがいっぱいで白線すら見えなかったが、夜になるとご覧のとおり。 ホテルの前に停まっていたFXSTC。 こちらはVRSCDX。

街中をスクーターのようにスイスイ泳ぐR1200GSの姿はよく見かけた
←街中をスクーターのようにスイスイ泳ぐR1200GSの姿はよく見かけた。

→TMAXの弟分にあたる125/250のXMAXもミラノではモテアイテムらしくメガスクータークラスではダントツの目撃率をほこっていた。

TMAXもミラノではモテアイテムらしくメガスクータークラスではダントツの目撃率をほこっていた

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