ライムグリーン伝説・第五章

KR750(1976)

KR750


伝説の2ストトリプル、500SSマッハⅢの750版として1971年に発売された750SS。500SSで人気となったマッハのシリーズ化一番手という面と同時に、AMAデイトナ200マイルへの参戦のために作られたエンジンでもあった。

その空冷3気筒エンジンをベースにチューンしたエンジンを、市販レーサーH1R系の車体に搭載した市販レーサーがH2Rである。

ワークス仕様のH2Rは1972年から活動を開始。オンタリオ200でポール・スマートが初勝利を挙げ、翌1973年はAMAの9レース中5勝を飾っている。

H2Rは、AMAのデイトナや国内レース、さらにはFIMのF750クラスなどに参戦。レース毎、シーズン毎に改良され戦闘力をアップしていくものの、水冷エンジンでレース専用設計のヤマハTZ750に空冷エンジンで対抗することは至難の業であり、1974年シーズンはついに未勝利という結果に終わってしまった。

大きな期待をかけられたH2Rだったが、大排気量2ストロークエンジンが生み出す暴力的とも言えるパワーと引き替えに、宿命である熱対策は、軽量という空冷エンジン最大のメリットを相殺する以上のデメリットを生み出してしまい、また、大パワーを支えきれない当時のタイヤ、チェーン等の問題もあり、期待されたほど勝利を手にすることはできなかった。

解決には水冷化が一番という結論から生み出されたニューマシンがKR750である。

エンジンレイアウト、4つの排気ポートを持つピストンバルブ並列3気筒でH2Rと同様であったが、水冷化はもちろんボア、ストロークが68×68mのスクエアとなり排気量は747ccへ、ミッションは6速化が行なわれるなどが新設計となった別物で、最高出力は20馬力近いアップを達成した。

1974年末に国内でデビューし、翌1975年からイボン・デュハメル、ミック・グラント、グレッグ・ハンスフォードら、カワサキ2ストビッグマシン使いにより、アメリカのAMAやヨーロッパの選手権、マン島TTなどのレースに参戦した。

さらにホモロゲーションマシンのレギュレーションが、それまでの200台から25台と大幅に減少したことにより、FIM、F750クラスにもミ参戦を開始した。

国内でも、全日本のトップカテゴリーであった750クラスにも、和田将宏、阿部孝夫、清原明彦らのライディングで1975年から79年に参戦、多くの勝利をもたらした。

また、1975年のマン島では、マイク・ヘルウッドのタイムレコードを破る速さを見せるなど活躍し、KR750はヨーロッパでは「グリーンミーニー」、最もKR750を乗りこなし水冷化されたイボン・デュハメル(カナダ人)は「スーパーフロッグ」の愛称で呼ばれ、大排気量車ライムグリーン伝説の礎を作った。

クラッチは乾式の24プレートの多板。ボア×ストロークは68×68.6mm、747.7cc。最高出力は116ps/9000rpm、乾燥重量は143kg。

現代の目で見るとかなり華奢に見えるトップブリッジ。幅も狭い。大きなカウルはFRP製。


チャンバーは右1本、左2本出し。エンジンカバー類はマグネシュム製。

前後のタイヤは18インチのグッドイヤー製スリック。

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