スーパーカブが誕生した1958年。
自動車は高嶺の花でトラックも近距離輸送がメイン。旅客機はプロペラ機。新幹線どころか、未だ蒸気機関車が日本中を走り回っていた。
あれから53年、新幹線は青森から鹿児島まで結ばれ、ジャンボジェット機すら引退が近づき、自動車は一家に一台を通り越え若者の自動車離れが進むほど交通環境は大きく変化した。
今から47年後、スーパーカブ生誕100年を迎えるとき、もっと時代は大きく変わりアシモはスーパーカブを運転出来るようになっているかもしれない。
そんな夢のような時代がやってきたとしても、スーパーカブの誕生から不変の基本思想、基本姿勢はブレず、揺るがず貫き通されているに違いない。
北米で大々的に展開された「ナイセストピープルキャンペーン」のポスター(写真右)。黒い革ジャンとアウトローというバイクに対するイメージを変える、明るく、楽しくわかりやすいポスターの効果は絶大であった。このポスターは日本国内でもいくつかのバージョンが作られ「世界のナイセストピープルホンダに乗る」というコピーで展開された(写真左)。 |
1963年 マルシン出前機 |
1964年12月 スーパーカブC65 |
1966年1月 スーパーカブC90 |
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ホンダの純正品というわけではないが(実は純正品も開発されていたが、本田宗一郎氏の鶴の一声で開発中止に。そのエピソードはこちらで)、スーパーカブと切っても切れない深い縁のダンパー付出前機をマルシンが開発販売したのが1963年だった。そば屋用Ⅰ型、寿司屋用Ⅱ型、中華用Ⅲ型とニーズに合わせ細かい仕様で発売され、あっという間に日本中に広まった。 |
OHVで誕生したスーパーカブは、主に耐久性の向上を目的としてOHCのニューエンジンを開発する。このエンジンはC100系の生産ラインを使えるよう外寸は同一とした経済設計で、1964年12月に初代C100系ボディのC65(63cc) に搭載されてデビューした。このC100系ボディにOHCエンジンの初代C65は、1966年5月にニューボディーに変更されたため生産期間は短い。 |
C65と同様の手法でOHCエンジンをCM90の車体に搭載して誕生。このモデルも生産期間がそれほど長くなく、また広報写真は存在していないようなので、写真は当時の広告から流用。 |
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