MBHCC A-6

かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。

あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

第28回 あの人この人こんな人

 
 私が初めてミスター・バイクに関わったのは表紙の撮影(※注1)でした。といっても撮影したのではなくされる側、 純真無垢な大学生だった頃です。同級生が編集部に出入りしていたのでガヤ要員として動員されたのでした。
 MB誌を見ることあっても、製作現場がすぐ近くで(と言っても私が住んでいた江古田から小一時間)、フレンドリーに出入りできるとは思いませんでした。私は田舎者ですから。意外と簡単に雑誌業界とお知り合いになれて、潜り込めることを初めて知りました(※注2)。私は田舎者ですから。
 しかし、この業界に進むかどうかまでは考えてなかったので、I事務所に入るまで以後ミスター・バイクと関わることはありませんでした。

 
 この撮影で斬新なことを知りました。道路上に三脚を立てて撮影する時は、道路使用許可がいることです。表紙の撮影中、おまわりさんがやって来て言いました。「撮影許可は? 三脚立てるなら取ってるでしょ?」と。ホコ天(歩行者天国のこと)なんだから車の邪魔にならないでしょ? と思いましたが「ホコ天で一番偉いのは人間。三脚は人間様の通行の邪魔になるから許可を取りなさい」とその原宿交番のおまわりさんは言いました(法令上本当かどうかは解りません)。「と、東京は恐ろしかとこタイ。三脚ば立るのにお上許可証がいるとは」と恐れおののいたのです(ウソ)。
 一人立ちした後、そんなことはすっかり忘れ、前号でも書いたように人気のない車も来ない路上に三脚どころか、ストロボを組み、トレペを張り、スタジオを勝手に作って、今では絶対できない(=やってはいけない)ことを平気で堂々とやるようになり、もしもおまわりさんに咎められたら「写真学校の学生なんです。卒業制作なんです。すぐ終わりますから」(※注3)と純真無垢な目で訴え難を逃れていました。今思えば、冷や汗が出ます。



1985年2月号表紙

(※注1)←エトさんが本誌デビューを飾った1982年2月号。「どういう意図があって原宿のホコ天(この頃どうだったのでしょう? もうタケノコ族やらロックンローラーはいたのでしょうか)で撮影したか全く記憶にありません。確かピンクのバックグラウンドに横位置の写真だったような。端っこ後ろでグレーのノッポさんのような帽子を被って両手の人差し指立てて変なポーズとってます」というのがエトさんの記憶。さあ、写真で比べてみよう。

(※注2)その後、東京では意外といろんな業界が結構近くにあると感じ、芸能界の裏方としてバイトをしたのですが、それは本題とは関係がないので書きません。恐ろしくて書けませんな話もありますが。そのうちネタに困ったら書きましょうか。

(※注3)歳を重ねるにつれ、学生と言うには無理がありました。が、「卒業制作!」と言い張るずるい大人に徐々になっていくのでありました。そのうち感覚が麻痺してきたのか、夜の8時頃人通りのある編集部前の道路にブームを組んで、トップライトをぶら下げて堂々と撮影やっていました(反省)。

 
 話はずれますが、大きな公園なども撮影するには許可が必要です。よく使っていたY々木公園の場合、お金を払って撮影許可の旗だか腕章をもらえば好き放題撮影できました(※注4)。それなのにチョこっと撮影する時は、一般人のふりをして撮影していました。注意されたら「そうなんですか? 知りませんでした。どこで許可をもらえばいいんですか」とすっとぼけて、許可をもらいに行くだけのこと。許可料はたいした金額ではなかったと思いますので、お金が惜しかったのではなく事務手続きが面倒だったのです(とは言っても、会社名とか住所とか撮影内容を書くだけです)。

 
 書いていて思い出したのですが、当時あちこちにデニーズが出来始めた頃でした。田舎者の私にはいろいろ思い出深いファミレス(※注5)です。撮影後デニーズで食事がお楽しみでした。
 ある日一緒に撮影をしていたA川カメラマン(※注6)、お腹がへってへって撮影後まで耐えられなくなり、「やめときなさい!」という私の制止を振り切り公園入口で明らかに無許可の怪しい屋台でフランクフルトを買ってきました。今なら「獲ったどー」と言い出しそうな満面ニコニコでしたが、口に入れたとたん顔面蒼白で吐き出しました。腐っているに違いない素敵な味がしたようです。いかにも筋モノのおっさん相手に文句を言う度胸もなく、あたかも口に矢が刺さった落ち武者のごとく落ち込んでいました。


(※注4)正確に記せば「できました」ではなく「してました」。実際はいろいろ規定はあったはずですが、まったく理解していませんでしたし、エロ系とか車を走らせるとかは例外でしょうが、本当に当時、うるさいことは言われませんでした。

(※注5)デニーズは青春の思い出です。学生時代はデニーズコンボとコーヒーで6時間ほどダベっていました。I井さんに初めてご馳走になったラムチョップステーキは今でも忘れません。「なんでも好きなもの食べていいワケ」ということで、ラムが何か知らずに注文しました。骨つきの肉なんて、ギャートルズのゴンの食べ物だと思ってた田舎者ですから、強烈なカルチャーショックを受けました。

(※注6)同じI事務所時代に所属していた大学の同級生。
1.六本木で愛車VT250にカッコつけて乗っていたのですが、バランスを崩しゴミ集積場所に突っ込み、見知らぬ外人さんに助けられ、救急車で病院に連れて行かれた(らしい)。
2.取材したカスタムバイクを勝手に「Gonta」と命名。堂々とページに掲載してショップからめちゃくちゃ怒られた(らしい)。
3. I事務所卒業後、カーoooooo の 大御所メインカメラマンになった(これはホント)。で、超お偉い編集長様と車に乗って後部座席ドアーの開け方がわからず、大編集長様にドアマンをさせた(らしい)。
4.某サーキットでレース中コース横断した(らしい)。その理由は、試乗会では勝手に渡っても怒られなかったのでレース中も問題ないと判断した(らしい)。
 などなど、数々の伝説を作った(らしい)超人超鉄人カメラマン。全ての話はらしいという推測です。
5.世良公則の歌まねがものすごく上手で右に出るものがいない(これはホント)。
 読んでないことを期待して……A川さん、間違えてたらごめんね。


 
 前置きはこのくらいにして本題に入りましょうか。今回の撮影話は大学を卒業しアシスタント修行も終わり、編集部に出入りし始めた頃の話です。例によって記憶は定かではありませんが、電話ボックスに何人入れるとか、自動車に何人乗れるかとか、いろいろなものに詰め込むことが流行っていた頃です。

 
 いつものI井さん(※注7)から電話がかかってきました。
「エトー、お仕事なワケ。ワシ、ホンダの新型スクーターの記事担当することになったワケ。で、面白い企画考えたんだけど、人集めてくんねー?」
「なにするんですか? 新型のスクーターってあのフュージョンですか? 女の子とツーリングでもやるんですか」
「あのさーエトー。そんなベ○トバイクみたいな企画じゃ面白くないだろ。ミスター・バイクでしかできないことしなきゃだめだと思うワケ、ワシは。だから何人乗れるか試したいワケ」
「え? なにを言っているのか私にはよく解らないんですが……定員は2名でしょう」
「でっかいスクーターだから、どんだけ乗れるかをやりたいワケ」
「あんまり意味なさそうな気がしますが……ギネスにでも載ろうという魂胆ですか?」
「その意味のないくだらないことをするのがうちの味なワケ。解る,エトー?」
「何となく、解るような気もします……が」
 あまり納得していないのですが、編集の意向とあれば従うのがペーペーカメラマン鉄の掟。
「とりあえず、人集めて欲しいワケ。若いのを。日大の後輩いっぱいいるでしょ」
「と言われても、もう卒業して4年も経ちますから」
 カメラマンの仕事ではなく手配師です。しかし従うのが〜(前文同)。
「なあ頼むよエトー、お願いなワケ」とウルウルした可愛い目(電話なので見えませんが)でお願いされると断るに断れません。もちろん断われば次のお仕事もその次も永遠にありません。
 以前アシスタントをしていたスタジオに出入りしている後輩を思い出し、早速連絡しました。
「○○島君、エトーです。ミスター・バイクでお仕事いただいたんだけど、協力してくんないかしら? 出たがりな人を15人ほど三角公園(※注8)に集めておいてくれないかい。撮影時間は30分くらいだな。ギャラは出ないけど飯は食わせるって。協力お願いね」と一方的に一気に喋りまくって話を切りました。電話を切った後で「そうか、私のミスター・バイク初出演もきっとこんな風に進んだんだろうなあ」と感慨深い思いに浸るはずもなく、人が集まらなかったらどうしよう、と小心者の私がちょろちょろと顔を出しました。


(※注7) 伝説の編集者、このコーナーではすでに何度も出てくるI井さん。まだ業界の景気が良かった頃、社員旅行で、天国に一番近い島、ニューカレドニアに行きました。
1.毎日水着を着ないで、着てきた服のままビーチサイドで寝ていた。
2.夜カジノで、客寄せ用のまず当たらないでっかいスロットマシンをやろうとしたが手持ちコインは2枚。3枚掛けの方が当たる確率が高いと部下を両替に走らせ待っていた。そのうち行列が出来てしまい後ろで待つ現地のおばちゃんに急かされた。泣く泣く2枚でスロットを回したら、いきなりの大当たり! 現地のおじちゃんおばちゃんは驚いて腰を抜かしていた。I井さん、ぜんぜん喜ばず「野○! おまえがとろとろ両替してるから損しちゃったワケ!」と、本気で怒っていた。
3.冬場、夜になると何故か学生服を着て仕事をしていた。
4.疲れてくると両眼を別々のやり方でこすり出す。
 と、なんでだろう? の多い人です。

(※注8)江古田駅北口から出て右、大学敷地の最初に見える角地です。勝手にそう呼んでました。今は図書館の一部になってます。


 
 撮影当日、心配しながら現場に到着すると学生たちが三角公園に集まってくれていました。ホッとする間もなく「先輩、何するんですか?」「雑誌のモデルですか?」「バイク乗せてくれるんですか?」「メシは何を食わせてくれるんですか?」と、学生達の質問攻めです。彼らは何をするのか解らないまま集められたようです。それよりも撮影用に運ばれてきたフュージョンに興味津々、東京に住んでいるからといって発売直後の新型スクーターにお目にかかることはめったにありません。今ではビッグスクーターくらいで若者は驚きませんが、見たことないどでかいスクーターを目の前に、「ホーホー」とフクロウのように頷きながらバイクを見る者、グラビアアイドルの写真集を見るかのようにあちこち舐め回すように見る者、中国人のようにボディーを叩いて材質を確かめ納得する者、人それぞれに探究心があるものだと変に感心してしまいました。
 これでは撮影が進まないのでI井さんに仕切ってもらいます。
「みなさん、こんにちはミスター・バイク編集部のI井で〜す。今回のテーマをお話します」フュージョンに群がっていた烏合の衆が、ぱっと顔を上げI井さんに注目しました。
「簡単に言えばこの大きなスクーターに何人乗れるか、君たちで考えてうまくやってほしいワケ。それをエトーが撮るから頑張って耐えながら頼むワケ」

 
 何を言ってるんだこのヒゲの人は? 一瞬へんな空気になりそうでしたが、I井さんが「んじゃ、とりあえず君はシートに座って、君は前で、おねーちゃんは顔が見えるようにね」と、君たちで考えてと言っておきながら君たちに考えさせる間もあたえずさっさと段取ります。さすが百戦錬磨の豪腕編集部員。あーでもない、こーでもないと何度もやり直し、写真の面白さも考え、花(女子)の見栄えまで計算しながら指導するI井さんのその姿は、草月流のお家元のようでした。



1985年2月号

 
 何度かやり直した末、ついにI井家元の作品が完成しました(※注9)。なんだかんだで結局15人も乗せてしまいました。
 それもすごいのですが、さすがメイドインジャパン、世界のホンダ製だと感心したのは、サイドスタンドを掛けたままの状態で15人乗ってもサイドスタンドが折れなかったこと。一人平均65kgとして約1t近くになるであろうに。
 その時、閃きました、かのマクガイヤーブラザース(※注10)が。アメリカにはとんでもないことしちゃう人がいます。なんたって、説明書に書いてなかったからと、ネコを電子レンジに入れて乾かして、訴訟を起こす訴訟大国アメリカです。対米輸出を考慮し、マクガイヤーブラザースが3人乗っても壊れない強度で設計したに違いありません(100%推測)。



1985年2月号


1985年2月号

(※注9)↗こんな状態ですから可哀想なことに顔が全然見えてない子もいました。今頃はみなさん、もう立派な大人になっていることでしょう。
このまま走れば、どっかの国の雑技団のごとく白い犬頭白けりゃ的写真が撮れたのですが、さすがに無理ですこんな乗り方じゃ。I井さんはなんとか走らせようと思っていたようですが……。

(※注10)外国人プロレスラーの兄弟。体重が300キロ近くありました。もちろん2人の合計ではなく1人で。入場の時ダックスに乗って登場していました。プレスバックボーンフレームのダックスも丈夫なんです。


 
 意外とスムーズに無事撮影は終了したのですが、流石にこんな写真だけで新車紹介ページにするのは気が引けたのか(というか、常識的に考えれば)、後日T君(※注11)のインプレッションページの撮影もすることになり、江古田から新宿副都心まで出かけて行きました。時間がかかりそうな何人乗れるかはスムーズに終わったのに、これはなぜか時間が押しまくって、部分の写真を撮り終わる頃には辺りは真っ暗。だから、一番肝心なライディング写真は上のような上がりになってしまいました。カメラが先幕シンクロなので軌跡がおかしな写真(※注12)になったのです。ひょっとしたらI井さんから「普通の試乗写真じゃなくて未来を想像するような写真が欲しいワケ」と言われたのか、暗くなったから苦肉の策でこんな具合に撮ったのか、どうもハッキリと憶えていません。しっかり覚えてるのはT君が、ものすごく忙しくて、撮影済むとサッサと帰ってしまったことだけです。
 ということで、今回は撮影秘話というより人の情報ばかりになってしまいました。すみません。


(※注11)レース経験もあるライターさん。若い頃はもてまくりのいい男。ある時(バブル前夜)「ポルシェ買っちゃった」と自慢して試乗会に乗り付けたのですが、914だったので、やっかみもあり「あっワーゲンだ」とみんなに言われ、以後ポルシェのことは一切口にしなくなりました。今はこっちの業界からきっぱり足を洗い(見切りを付け)、とある業界で結構羽振りがいいと噂に聞きました。うらやましい。

(※注12)この頃、Canonに後幕シンクロカメラはT90(今月もCanonカメラミュージアムで探してみましょう)しか無かった気がします。Canon派の私ですが、T90は持ってませんでした。今はストロボの方で勝手に調整してくれるみたいです。ちなみにカメラマンのくせに、カメラもバイクもメカには詳しくない私です。私の頭の中は完全に何もついてない4×5思考のマニュアル撮影技術しかありませんので、近代的便利機能は人から教えられて使いだすことが多いです。でも無線でストロボ発光させたり、シャッター切ったり、プレビューデータをipadに飛ばしたりとか変な技術は人一倍興味のあるのも私です。

衛藤達也
衛藤達也
1959年大分県生まれ。大分県立上野ヶ丘高校卒業後、上京し日本大学芸術学部写真学科卒業。編集プロダクションの石井事務所に就職し、かけだしカメラマン生活がスタート。主に平凡パンチの2輪記事を撮影。写真修行のため株式会社フォトマスで (コマーシャル専門スタジオ)アシスタントに転職。フリーになり東京エディターズの撮影をメインとしながらコマーシャル撮影を少しずつはじめる(読者の方が知っているコマーシャルはKADOYAさんで佐藤信哉氏が制作されたバトルスーツカタログやゴッドスピードジャケットの雑誌広告です)。16年前に大分県に戻り地味にコマーシャル撮影をメインに活動中。小学校の放送部1年先輩は宮崎美子さんです。全く関係ないですが。


●衛藤写真事務所
「ぐるフォト」のサイトを立ち上げました。グーグルマップのストリートヴューをもっと美しく撮影したものがぐるフォトです。これは見た目、普通のパノラマですが前後左右上下をまるでその場に立って いる様に周りをぐるっと見れるバーチャルリアリティ写真です。ぜひ一度ご覧下さい!

http://tailoretoh.web.fc2.com/ 

  

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●メール tatsuyaetoh@gmail.com

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